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ヤビツ峠から塔ノ岳へ

20分だけの仲間と"こんなはずじゃなかった"

   ちょっと長い距離を歩きたくて、オットが早朝に出かけて晩ご飯のいらない日、どうせ早起きするのだしーと、山に向かうことにする。

小田急線で小一時間の秦野というところで降り、午前中一本しかないバスに乗り、4・50分揺られるとヤビツ峠に到着する。ここから稜線に上がり、塔ノ岳を目指す。久しぶりの一人長めの山行だ。

このコースは2016年にKちゃんとオットとで歩いている。二人はひーひー言ってたが、私は"一人裏高尾トレラン"の後で脚ができていたのか、終始楽しく楽ちんだったのしか覚えていない。なので今回もさくさく歩ききるつもりでいたのだが、そう簡単にはいかなかった。

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これはその5年前の時の写真。Kちゃんが撮ってくれたもの。若いよね。


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さて2021年。30分程早く来て、バスを待つ。6人くらい待っている。あっという間に後ろに20人くらい並ぶ。並びながら、サンダルから登山靴に履き替える。サンダルが荷物になるが、下山後の足の軽さには変え難いのだ。


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バスを降りて登山口まで30分ほど林道を歩く。
 ピタピタのウェアとヘルメットにかっこいいサングラスかけて、スマートな自転車でえっちら登ってくる人が結構いる。そういえば車のディーラーのお兄ちゃんも自転車30万で買ってサイクリング始めたと言ってたな、流行ってるのかな・・・などと、一人ぶつぶつと脳内会話で進む。

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登山口。三ノ塔まで2キロ。塔ノ岳まで6.1キロ。この意味がよくわかってなかった。ここから長い長い戦いが始まった(おおげさ)。

序盤から結構な急登なのだ。しかも暑い。8月だからしゃーないが、山なんだからちょっとは涼しいかと思ってた。どんどんしんどくなっていく。こんなはずではーという気持ちが辛さに拍車をかける。

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なんとか稜線に上がって、それはそれは気持ちの良い眺めであっても、続くアップダウンにさらに気持ちが削られる。

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こういうところはちょっと楽しいけど。

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花もそこそこ咲いていて、かわいらしいけど。

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4時間の死闘(おおげさ)の末、やっとこ目的地。きれいなお姉さんが写真を撮ってくれると言うので携帯を渡すと、いろんな角度でパシャパシャ撮ってくれる。そうよね、へんなの撮れたら消せばよいのだもの、照れ臭いけど嬉しい。今まで頂上で撮ってあげる時、生真面目に1・2枚パシャっと撮って終わらせていたけど、次からそうしてみよう。その中のこれはなんとなく気に入った1枚。

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 頂上の様子。バスの中で洋書を読んでいたお兄さんが先に着いていて、ちょっと前の方に座って、同じ本を読んでいる。私も本の一冊くらい運び上げてゆったり読むくらいの、気概と余裕を持ちたい。

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 この方は20分程、一緒に歩いた仲間だ。

 もうすぐ頂上というところで、どうにも我慢ができなくなり、登山道から見えないところでお花摘みをした(おトイレね)。ザックに常に入れてある緊急用のいろいろを引っ張り出したら、この方がのこのことザックに入り込んできたのだ。つまんで出せばよいのだけど、つまめない(ちょっとコワイ)。どんどん奥に入ってしまう。ザックの中身をいくつか出して振るようにしてみても、出ていったかわからない。そうこうするうち、他の方々がザックに入ってきそうだ。仕方ないので、確認はあきらめ荷物を戻し入れ、登山道に戻る。

 どうしたかなー、うまく荷物の隙間にいてくれるといいんだけどなーと案じながらの20分。頂上着いてすぐ荷物全部出して、ザックを完全にひっくり返したら、出てきましたよ。のそのそ。おお、生きててよかった。この背中はつぶれて開いている訳ではなく、撮った直後この羽を広げてぴゅーんと飛んで行ったのだ。おおー。ザックの中で揺られてた気分はどうだったかな。20分だけのbuddy。元気でね。

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さて、下山。来た道は戻らないで、バカ尾根と言われる大倉尾根を降りて、大倉でバスに乗って秦野の駅に戻る。
この写真下り初めに撮ったもの。歩いてきた稜線が見える。

 えんえんと階段の続く下山もなかなかのしんどさだった。何度か往復したことのある道なので不安はないけど、稜線を歩いた脚がもつのかがわからない。最初うまく動かない感じでどうなるかと思ったのだが、半ば過ぎてから下りに脚が慣れたのか、するすると降りられるようになった。里に近づいた最後の20分は小蝿のような虫にたかられまくって、手ぬぐいを振り回しながら、結構な早さになっていた。小蝿のbuddyはあんまり嬉しくないな。

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大体いつも一人山行のあとは、達成感に満たされそれなりの多幸感が得られるのだけど、今回はちょっと凹んだ。終始"こんなはずではー"という思いにとらわれ続けて楽しめなかったのが、残念だった。5年前は確実に若かったし、良い思い出しか残ってないのに、すっかりそれに囚われてしまって、覚悟が全然足らなかった。どうせ歩くなら、もう少しあたりを見回してその瞬間を楽しみたかったーと帰りの電車で鬱々と考えていた。

 "こんなはずではー"という気持ちって、しんどいものだと帰宅して考える。"こんなもんだろ"とか、良い方に振れた"こんなはずではー"は、気持ちと体を軽くさせるが、がっかりの"こんなはずではなかった"には、ほんとに心身が削られる。

 "こんなはずではー"の中には、"こうであるべきー"というのが混じっている。"こうであるかもしれない"や、"こうであったらいいな"ではない、"べき"だ。"べき"は辛い。自分にも人にも課してしまうと辛い。

 もちろん、山には非常食や救急用品をもっていくべきだし、人には親切にするべきだし、生き物を大事にするべきだ。そんな普遍的な常識的な"べき"ではなく、自分や人を縛りつけるような"べき"からは、自由でありたいと自由である"べき"だと思った、ほろ苦い山登りだった。

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