画家として生きるということ

絵を描いて生きていくというのは並大抵のことではない。

画家で絵を描いていて楽しいという人は一体世の中にどれほどいるのだろうか。

絵を描くことは純粋な求道であり、その道は困難を極める。

もちろん、絵の中で追及を重ねることで充実感を覚えることも、ほんのひととき、楽しいと思うこともある。

しかし、大部分の時間は修羅場である。

自分が満足する絵を描けている人はどれほどいるのだろうか。

完成はどこか。途中の絵の方が良く見えたりもする。ずっと一枚の作品と向き合い続けていると次第にわけがわからなくなっている。

寝食も忘れ、没頭するが、それだけでは足りない。

もっと、描く対象を__想起しなければ、あの記憶を、色と形と自分の血肉と神経をすべて結晶化しなければ辿り着かない。

その境地があることを知っていて、そこに辿り着くことが目標だということをわかっていて、しかしそれが雲を掴むような話なのだ。

そこに画家の苦悩がある。

セザンヌは言った。手の平の指を一本一本折り重ね握り混み、その握りこぶしをさしていった。このようにするのだ、と。

そこに少しの隙間があったらもう全てはバラバラになってしまうのだ、と。

その言葉の意味が、絵の前で実感を持って響いてくる。

ゴールの姿も存在もはっきりわかるのに、その景色までの道のりのなんと遠いことか。

そしてそれができなければ、あるいはそれを追い求めなければ画家して生きる術はないのだ。
それを諦めた時点で私にとって絵を描く意味はすべて離散する。

それは、本当に跡形もない___

ジャコメッティは描いた線を何度も消し、何度もまた上から描き、また消し、描き、それを永遠になん十回、何百回と繰り返した。

彼の絵に完成をみることはない。
しかし、その苦悩の跡が、やはり美しいのだ。

絵を描く満足をどのレベルに持っていくか、どこに持っていくかは千差万別だ。

しかし、世の中の沢山の綺麗な完成された絵を見ていると、純粋にそこで満足できるのか、そうか、と思ってしまう。

だからといって私は未完成であることに価値を見いだしているわけではない。完成させたい一心で真っ直ぐに突き進む。

もっと先がある、先があると思って手を重ね、結果泥沼状態になり、途方に暮れることになる。

一つだけ確かなことは、自分が作品を前にして心から完成だと思えた瞬間、そこで私はこれ以上ない喜びと幸せを感じることになるだろう。

身一つ、己ひとつでそれを達成し得たとき、私はきっと心の底から安堵し、生きていて良かったと思えるだろう。

その瞬間を夢見て、今日も筆を走らせる。