見出し画像

能楽の魅力

能楽が好きだと言うと、「どうして?」とよく聞かれます。これも能楽の特徴でしょ。カレーやローリングストーンズでは、こうは聞かれません。同じ伝統芸能の歌舞伎でもこうはならないでしょう。どこが、ではなく、どうして。この「どうして?」は現代の日本人と能楽の距離の遠さを端的に表していると同時に、能のある側面を決定づけています。

能は全体から細部までまっすぐに美術だということです。何から何まで美しさのために設計されています。どうして、と問う人は薄々それに気づいているのです。

まっすぐ美しいものは、言葉ではなかなか表現できません。人間は言葉で表現しづらいものを、分かりづらいものと認識する節があります。だから「美術は分かりづらいもの」となってしまうことが多々あります。好きだ、面白い、の一言ではなかなか済ませられない、そういった捉えがどこかにあるのではないでしょうか。

僕も人に説明するために、自分が能のどんなところを好きなのかよく考えます。ただ、どうしても好きになってもらうことを前提に考えてしまうので、思考が上目遣いになってしまうというか、本当に自分が能を好きな理由を正直に言うことはありません。

僕が能を好きな理由は、その美しさが哀しみで満ちているからです。

これは私見ですが、能の特色として、美しさが哀しみで出来ているとよく感じます。愛する人への想いはなかなかうまく届きません。舞台の世の中は無常に満ちています。しかし、それをことのほか美しく描くのです。

そもそも哀しい設定が多いです。恋人が死んでいたり、はてまた自分が死んでいたり。

『道成寺』という演目は、両想いだと信じて疑わない女が逃げる男を蛇になって追いかけ焼き殺したという伝説がベースになっています。ストーカー殺人です。

『鞍馬天狗』という演目では、恋した天狗がそれを隠そうと思う心が合唱される箇所があります。自分はジジイで、相手は若く美しい牛若丸だからです。哀しいです。合唱しなくていいです。

『隅田川』という演目では、母が子を探し旅をしていますが、お母さんは気が狂い、息子は死んでいます。地獄です。

なかなか、今で言うところのハッピーエンドがありません。もちろんフルフルハッピー&雅のお話もありますが、そういったお話の場合は、帝や神様がめでたいのであって、よく考えると哀しくなります。

最後は一見ハッピーに終わる化け物退治の話でも、化け物の方にフォーカスが当てられています。悪役のスパイダーマンといった『土蜘蛛』や、武士を誘惑する鬼女軍団の『紅葉狩』も、主人公は倒される側の化け物なのです。そして、それらのモデルが、そもそもは朝廷に歯向かった地方の部族だったことを想像すると、それはそれで切ない話じゃありませんか。しかし、装束から舞まで、倒す側より格好よく美しく描かれるのです。

哀しさと美しさが表裏一体で出来ており、どちらが表なのか分かりません。

見終わった後、スッキリ爽快というよりも、しみじみとした気分に浸ることが多いのもそのせいでしょう。

ほらね、初めての方をお誘いするにはなかなかつらい口説き文句になってしまいます。

だから僕は、能がどうして好きかと問われると、ほとんど同じ答えでこう返しています。

「スーパーかっこいいからです。」

自分の語彙のなさ、表現力のなさが際立っており、且つ正直でもあり、なかなかいい答えだと思っています。

実際、あまりの美しさにぼーっとすることもあるんですよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?