見出し画像

ビールと私

金曜日の夜、ビールが私を待っていた。

「おかえり」ビールは私に声をかけた。

私は無言だった。ひどく疲れていたのだ。
靴下を脱ぎ、足を洗い、手を洗い、うがいをして、そこまでは丁寧に辛抱強く頑張った。けれどそこで全てがめんどくさくなって、スーツを雑に脱ぎ捨てると、私はくだらない格好のままソファーに横になった。

「あんたはこれから俺を飲むわけだが」

 放心している私に、再びビールが話しかけてきた。

 私はじっとビールを見つめた。

「勘違いするなよ、別に俺は何も命ごいをしようとしているわけじゃない」

 私はこくりと頷いた。

「ただね、今日のあんたに俺は飲まれたくない。わかるかい?」

 私は黙っていた。めんどくさかったからではない。その時、ビールの強い意思を感じたからだ。

「俺はあんたを楽しい気分にさせたい。発達しすぎたあんたの脳の機能を一部停止させ、シリアスな日常から少し離れていただくことが、俺の使命なわけで、間違っても眠気、気だるさ、怒り、悲しみ、そんなものを増幅させるために俺は生まれてきたんじゃない」

「……ああ、分かるよ」

 私は何度も頷いた。

「OK。あんたはいい男だ」

「ありがとう」

それから数日、ごきげんだったその日、私はビールを飲むことにした。そしてその時、ビールは何も語らなかった。

この記事が参加している募集

ほろ酔い文学

いつも読んで下さってありがとうございます。 小説を書き続ける励みになります。 サポートし応援していただけたら嬉しいです。