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たいしたことない日々のこと0705

どうでもいい記録の日記、たいしたことない日々のこと。

あまり発する意味や意義を感じない言葉、思考、生産物のなりそこない、それでも見られることを意識しながら書くこと、あるいは時間の変容でどれくらい考え方が変わっているのか知りたくて不定期にnoteでの日記は残しておこう、と思い更新する。あまり読み返しはしないからほぼ一発書きで。


日記だけはひたすら量産することができて、それがいったい何の役に立つのか、はたして誰が読むのか、読んだところで何を得てもらいたいのかも特にないので、恥ずかしい様をたださらけ出しているかのよう。ただ、辻仁成氏の言葉に日記は「今日という日の自分に決着をつける」という表現がされていて、なるほどと思った。書き残すことで、きちんと日々を終わらせた感覚、ごちそうさまでしたと手をあわせるような行為は確かにしておきたい。それとは別に書くのが楽しいという事実も大きな理由のひとつ。気が済むまでわたしは無駄な文章をずっと書き続けるのだろう。

ごちそうさま、といえばちょうど昨日はカフエマメヒコで食事をした。自分では絶対に作らない組み合わせや味付けをシンプルかつ丁寧に提供してくれる季節のご飯会、7月のテーマは「夏」。美味しかったなあと時間が経過してもしみじみ心のなかに残るし、こういう食事を口にするとインスタントなものやアルコールから距離を置こうと身を律したくなる。特にアルコール。お酒は自分のこころを騙すために飲んでいるのだろう。嫌なこと、大変なこと、疲れたことなどを忘れるための逃避ツール。自覚はそれほどないはずだけれど無意識下でストレスを感じているのか、いくら人間ドックを受けて問題がないとはいえね、健康のためにはあまり飲み過ぎないほうがいい。

マメヒコのご飯を食べているとお酒がいらないし欲しいと思わない。だからすごい。素材のちから、自然の豊かさに陶酔させてくれる。

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公園通りのマメヒコで特に好きなのが、入口の扉を開けるとどんと置かれた木製の長テーブル。そこで大人数のグループが同じご飯を食べながらあれやこれやと話をする、それは気取った集まりではなくて日常の延長線上にあり、大家族の食卓を想起させる。そういえばフランスの友人はかつて、クリスマスには毎年恒例で家族が集まり11時とか12時頃から夜遅くまでノンストップで食事会を繰り広げると話をしていた。胃袋がおかしくなるし、喋り過ぎて口が疲れるし、仕事や恋愛など様々な面倒ごとを根掘り葉掘り親族から聞かれるから、ストレス以外の何物でもないと言っていたけれど、それでも兄弟や家族親類がたくさんいる場所でにぎやかにすごす時間というのをあまり経験したことがないわたしからすると、一抹の羨ましさみたいなものがどこかある。

Airbnbで泊まるフランスのアパルトマンにも家族写真が飾ってあったりなんかしてね。血統主義の証明かと思いつつもそうではない一人の個の集団である空気感は、共同体意識の捉え方がそもそも異なるからか、単純に背景の建造物が異なるだけなのか、西洋の家族写真が醸し出す雰囲気にいつも魅了される(だいたい庭でそれは撮影される)。自分もいつかは、どこかの集団に属するような覚悟を決めることができるかな。理想の共同体に出会えられたら、可能なのかどうか。

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今週から7月。仕事はひと段落ついてもあくせくとタスクに追われるのは6月と同じまま。ポジティブのハンドルは全開でもないしネガティブの海に溺れてもいない。なんとなく平坦な道をいまは一歩ずつ歩く日々。あれやこれやを考えず、目の前に岩場が現れたならば都度、頭と身体をつかって越えていくモードである。

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