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【中国山地の歴史④】中国山地の暮らしを支えた和牛生産という生業

 こんにちは。中国山地編集舎メンバーの宍戸です。2021年もよろしくお願いいたします。今年の干支は「牛」ということで?、今回は中国山地の歴史にとって欠かすことのできない和牛について書いていきたいと思います。現在の私たちは和牛と聞くと、 食用としての牛、いわゆる「牛肉」を思い浮かべますが、和牛の歴史の大半は農耕や運搬に使役することを主目的としており、実は、食用のためだけに飼われたのはごく最近です。今のように農業機械やトラックなどが普及する前、およそ1960年代より前は、和牛が非常に重要な役割を果たしていましたし、「農宝」とさえ呼ばれて非常に大切にされてきました。そして、使役牛の時代には、市川健夫先生の著書を引用すれば「中国山地の山間地帯は、わが国における最大の和牛生産地」でした。例えば、石田寛先生は昭和36年(1961)の論文で「中国山地は日本における主要放牧地帯の1つであり、その特色はあくまで和牛の放牧にある、すなわち全国放牧和牛の60%は中国山地におり、この放牧地帯こそ日本における仔牛生産地帯である。」としています。

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写真:中国山地の神社に祀られている「農宝」である牛の安全を願う神像(筆者撮影)

たたら製鉄と和牛産地の深い関係

 なぜ、中国山地が日本最大の和牛生産地になったのでしょうか。まず、日本全体を俯瞰してみましょう。13世紀の「国牛十図」には「馬は東関をもって先とし牛は西国を以てもととす」とあり、馬は関東、牛は西日本で主に飼養されていたようです。こうした特徴はその後も受け継がれ、明治13年時点でも伊勢湾と敦賀湾を結ぶ線から東は馬地域、それより西が牛地域、さらに南西の香川を除く四国地方と九州地方は牛馬混合地帯でした。つまり、そもそも牛飼養は古くから近畿地方と中国地方が中心だったのです。そして、近畿地方と中国地方を中心とした牛地域の中でも、中国山地には牛生産地として成長する要因が揃っていました。例えば供給面では、中国山地の比較的なだらかな地形は放牧しやすく、かつ傾斜によって使役に適した足腰の強い牛を育てるのに好都合でした。また、需要面では、たたら製鉄の存在が欠かせません。なぜ牛とたたら製鉄が関係するのでしょうか。両者の関係について宮本常一先生は「鉄山経営には木炭・砂鉄その他運搬を必要とする物資が多い。こういうものを一々人の背にたよっていたのではどうすることもできない。そこで古くは多く牛の背を利用したようである。」とし、「冬は駄屋でかい、夏は山野に放牧した。山野といってもそこは砂鉄をとったあとが多かった。そこには鉄穴流しをおこなった池や、鉄穴溝ものこっていて、牛があそぶには適している。だから砂鉄掘りをしたあとはほとんどといってよいほど牧場として利用せられている。」としています。

 つまり、たたら製鉄と牛は非常に密接に関連していたのです。奥出雲に残る享保18年(1733)の史料にも「百姓共炭粉鉄致運送鉄師より牛馬代等借用仕牛馬調冬春は駄賃負を渡世送其上田畑こやし手入も心配仕作合も鉄師より借用仕作付手入大丈夫に仕懸り申候故田畑出来立も能(百姓たちは、たたら製鉄の経営者から牛馬の購入資金を借用して牛馬を調達し、冬から春は木炭や砂鉄を運送することで生活している。その上、田畑の肥やしも手に入れられ、種籾もたたら製鉄の経営者より借用し、作付けも十分にできるので、田畑の出来もよい)」とあり、たたら製鉄と牛馬、さらには農業の関係が述べられています(ちなみに、たたら製鉄が栄え道も良くなると、馬の割合も増え、たたら製鉄の衰退とともに再び牛の割合が増えていったようです)。

中国山地に生きる人々の英知により優良系統牛「蔓」を造成

 このように、中国山地では供給と需要の双方の要因により和牛生産が盛んだったのですが、単に盛んだったというだけではなく、非常に大量の牛が飼われているという環境を背景に、頑健かつ温順であるといった、使役に適した優良形質を持つ和牛を増やすための和牛改良技術も育まれてきました。和牛改良技術とは、少なくとも特定の優良形質の遺伝子がホモ化した牛をつくる技術のことで、和牛改良技術によって「つる」と呼ばれる優良形質を受け継いでいく系統牛がつくられてきました。特筆すべきは、今日の遺伝学的に見ても合理的な技術を、中国山地の人々は経験によって生み出してきたということで、板垣貴志先生は「メンデルの法則が発表されたのが1865年である。中国山地での蔓牛造成は安永期(1772~1781)にさかのぼる。理論より農民的実践が先行していた事実は歴史に銘記されねばならない」としています。

 そして和牛放牧と和牛改良は、中国山地の中でも特に「鳥取、島根、岡山、広島の4県抱合地帯」、現在の地域名で言うと、県境を挟んで隣接する鳥取県日野郡日南町、島根県仁多郡奥出雲町、岡山県新見市、広島県庄原市を中心としたエリアが核心地域でした。羽部義孝先生は、日本における最も優秀かつ有力な「蔓」として、「竹の谷蔓」「卜藏蔓」「岩倉蔓」「周助蔓」の4つを挙げており、このうち、「竹の谷蔓(現:新見市)」「卜藏蔓(現:奥出雲町)」「岩倉蔓(現:庄原市)」の3系統が、「鳥取、島根、岡山、広島の4県抱合地帯」に属しています。また、「周助蔓」は、兵庫県美方郡で生み出された系統で、こちらも広義の中国山地に含まれます。

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写真:中国山地では誇らしげに立っている牛の像を見かけることも多い(筆者撮影)

伝統的な放牧と新たな放牧

 一方、中国山地での和牛生産は、前述したように「あくまで和牛の放牧」が特色でした。「放牧」というと、今日の私たちは、一定の土地に和牛を囲い込んだ状態、いわゆる「牧場」をイメージしてしまいがちですが、中国山地で行われていた放牧は全く違い、大量の牛をあまりに広大な土地に放牧するために、牛の放牧地を囲い込むことが困難で、むしろ家や耕地など牛が入ってはいけない場所を柵で囲って春や秋に放牧し、牛は柵の外で自由に草を食んでいました。このような放牧形態であるために、前述の石田寛先生の論文には、新見市千屋では、土地の人々が牛の放牧をしているにもかかわらず自分の村に牧場は存在していないと認識している、という興味深いことが記されています。そして、その放牧地の一部を畑にして雑穀を栽培するなど、放牧と耕地の不規則な輪換も行われていたほか、稲刈り前や後には田んぼにも放牧して、畔草や稲刈跡のひこばえを食べさせ、牛の排泄物を田んぼに落とさせて肥料にしていたようです。ちなみに、中国山地には今でも「大垣内」など、「垣内」の付く地名や屋号がありますが、それはこの柵=垣で家や敷地を囲っていた時代の名残のようです。

 このような伝統的な放牧形態は、今日では見ることができませんが、中国新聞社の「中国山地」には、伝統的な放牧形態の最終章にあたる記事が掲載されています。それによると、新見市の千屋では「ふつう放牧場を囲む牧サクがここでは人間の家や田畑を囲む。カベと呼ぶ。クリの木を組んだサクの外はすべて放牧場。」なのですが、「ダンプを避けそこねた単車が『カベ』に衝突し、以後、牛の天国に風当りが強ま」り、警察からカベの撤去命令が出ていることが記されています。このように、農業機械の普及とともに使役牛は不要となり、やがて放牧のための伝統的なカベも邪魔者扱いされて、中国山地から消えていったのですが、一方で「みんなでつくる中国山地2020」には、「山口型放牧」の名で新たな放牧の取り組みの記事が掲載されており、「山口放牧牛は、ストレスの少ない環境でのびのび育ち、赤身の旨みが特長です。山口型放牧は、休耕田で繁殖用の和牛を一時的に放牧するもので1989年に始まりました。」と記されています。もしかしたら、一周回って、中国山地の伝統的な土地利用である和牛放牧の合理性が見直され、むしろ最先端になりつつある、という考え方もできるかもしれません。

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写真:中国山地で時折みられる休耕地での和牛放牧(筆者撮影)

※ちなみに表紙の古写真は、かつて我が家で飼っていたと思われる牛です。

〈参考文献〉
(1)市川健夫『日本の馬と牛』東書選書.1981
(2)石田寛「農業地域における牧畜」『生態地理学』朝倉書店.1961
(3)宮本常一『山に生きる人びと』河出文庫.2011
(4)仁多郡役所編『島根県仁多郡誌(復刻版)』名著出版.1972
(5)板垣貴志『牛と農村の近代史-家畜預託慣行の研究』思文閣出版.2013
(6)羽部義孝『蔓の造成とつる牛』産業国書株式会社.1948
(7)中国新聞社編『中国山地 上』未来社.1967
(8)中国山地編集舎『みんなでつくる中国山地2020』中国山地編集舎.2020

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