太陽神理論

2018年10月28日。

天皇賞秋が行われたその日、わたしは某WINSにいた。

わたしは基本的に家で観戦することにしているので、WINSを訪れたのは数年ぶりである。

最近は、WINSにも若い女性が増えていて、昔みたいな中毒者の巣窟ではなくなっていると聞いていたが、いやはや相も変わらず、汚いオジサンたちの掃き溜めでしかなかった。

「あ~やっぱり変わらないよね~。WINSはこうじゃなくちゃね~」なんて呑気に感傷に浸っていたのだが、3階にたどり着いた時に事件が起こった。


通常、WINSでは、人々は競馬新聞を眺めているか、モニターを眺めているか、マークシートを塗りつぶしてるかの3択しかないのだが、この階では、皆が皆フロアの中央部を注視しているのだ。

何やら只ならぬ雰囲気

何事かと思ってみてみると、そこには裸足の男性がいた。


「え?もう秋なのに裸足?」

心の中で突っ込んだが、よくよく考えると、夏だろうが冬だろうが、裸足はおかしい

ここは砂浜じゃなくて、WINSなのだ。

いや、それだけではない。他にも突っ込みたくなる点は多々あった。

小学生が着るような半ズボンに、上は白のタンクトップ。

何年切ってないんだろうというくらい髪の毛に、インドの老人かのように伸びている足の爪。

もはや修行僧の様相を呈しており、年齢も20代には見えたものの、30代かもしれないし、40代と言われればそれはそれで信じてしまう。


もうとりあえず、この時点でやばいお方なのは明白であったが、その方はずっと皆に聞こえるような声で、独り言ちていた。


「あ~あ~あ~。お願いしますぅうう。お願いしますぅうう。人生がかかってるんですぅぅうううう。リチャード頼むよ~。お願いします。お願いします。一生のお願いです~。リチャード頼むよ~。本当に今回だけでいいから~~~~」


なるほど!!


どうやら彼はスワーヴリチャードに人生を賭けた勝負をしているようだ。


画像1


スワーヴリチャードは1番人気。

人生を賭ける人がいたとしてもおかしくないだろう。

そうやって考えると、裸足も何かの願掛けかもしれないし、長い髪や爪も験担ぎなのかもしれない。


では、一体いくら賭けているのだろうか?

わたしは興味を持った。

人生を賭けた勝負といっても、人によって金額は様々だ。

身なりからしてそこまで裕福には見えないので、1万円くらいだろうか?それとも10万円くらいだったりするのだろうか?


その時、皆が彼から一定の距離を取っていたため、彼を中心にして、同心円状に人だかりができていたが、好奇心旺盛なわたしは、その方が手にしていた紙馬券を間近で観察するべく、その後ろに近づいた。

が、そのタイミングで、彼は次なるステージへと移行する……。


舞を踊り出したのである。


「あ~太陽神様ぁぁああ、太陽神様ぁぁああ。あ〜太陽神様ぁぁああ、太陽神様ぁぁああ」


何度もいうが、ここは現代のWINSである。太古の祭壇ではない。


彼は自らの掛け声に合わせながら、右手を天にかざし、次には左手を天にかざし、と独特な型を取る。

その型をベースに時にはアレンジを加える。
急に右に動いたかと思えば、左に突進したり、飛び跳ねてみたり、床にひれ伏すようなポーズをとったり。自由自在。

まさに守破離である。

独り言の時とは比にならないほどのざわめきが、フロアに起こった。

そりゃあそうだろう。

土方巽ばりの暗黒舞踊を見せられるとは、誰一人想像せずに家を出てきたのだ。
こんな非日常にいきなり遭遇して、戸惑わないほうがおかしい。

人々の戸惑いをよそに、彼は舞い続ける。

もはや忘我の境地。

この世には私だけがいる。他には何もいない。そしてやがて私も世界と一つになり、私もいなくなる。

そんな世界。


いったい私は何を言っているんだろう?


当時のわたしもおかしくなっていたことは否めないが、踊り続ける彼を見ているうちに湧き起こってきた感情は敗北感だった。


わたしは負けたと思った。完敗だった。


どれだけ人生を賭けた勝負であろうとも、わたしは公衆の面前で太陽神様の舞を踊ることはできない


つまり、本当の意味では人生を賭けていないのだ。

本当に人生を賭けた勝負であれば、他人の視線など、気になるはずもない

無我の境地で、ただただ自分の本命馬の好走を祈るはずだ。


恥ずかしいなんて感情がある時点で、集中できていない証拠だ。勝負に徹することができてないのだ。

昔、勝つためにウンコを垂れ流しながら走ったマラソン選手の話を聞いたことがある。その時にアスリートとしての姿勢に感銘を受けたものだが、この太陽神の男も同じではないだろうか。

何というプロフェッショナル精神。


それに引き換えわたしはどうか?

わたしにはそれだけの勇気もなければ覚悟もない。

なんという中途半端な男だろう。

でも、、、

何度考えても、どう考えても、公衆の面前で太陽神様の舞を踊るなんて死んでも嫌だ。


わたしはひれ伏すような気持ちで、彼を眺めていた。

太陽神の舞を踊るなんて、いくら賭けたらできるのだろう?

少なくともわたしは一万円や十万円ではできない。というか一億円でも無理だ。

わたしは恐る恐る彼の右手に握りしめられている馬券を覗き込んだ。


「え?」


わたしが人生において、人の馬券を見て驚いたことは、後にも先にも、この1件だけである。



彼の右手には


⑤スワーヴリチャード 単勝 100円


の馬券が握りしめられていた。



「嘘やろ?」


どういうこと????

太陽神の舞を踊るくらいの大勝負が単勝100円????

勝っても250円にしかならない??

儲けは150円じゃない??

マクドナルドにも行けないよ?

どこに人生を賭けてる要素があるの?


わたしの頭の中に?の大群が去来したが、当然彼には関係ない。

一心不乱に舞い続けている。

唯一の違いは独り言を超えて、絶叫になっていることであろうか。

「頼むよぉおおお~。お願いしますぅぅううう~~~~。絶対来てくれよ~~~~。太陽神様ぁあああ~~~。お願いしますぅううう~~~。太陽神様ぁああああ~~~~」


馬券において、金額の大小を問うのは無粋である。

一万円であろうと、その人にとってなけなしのお金なら紛うことなく大勝負だし、十万円であろうとそれがその人にとって端金では大勝負にならない。

金額の大きさそれ自体よりも、その人にとってその金額がどれだけの重みを持つかがギャンブルにとっては重要なのだ。

だから、人の馬券を金額で評価してはいけない。わたしはずっとそう思っている。


だが、100円馬券で、太陽神の舞を踊ってはいけない。


それは反則である。ルール違反である。

それをやられたらもう社会は成り立たない。

我々人類には多少なりとも暗黙のルールがあるのだ。

物を盗んではいけない。人を殺してはいけない。100円で太陽神の舞は踊ってはいけない。


いったい何を見せられているのか分からなかったが、とりあえずわたしに理解できる物ではないことだけは分かった。

が、自分が理解できないからと言って、拒否するのは愚か者のすることである。


わたしは最後まで勝負を見届けようと思った。

正直に言うと、スワーヴリチャードが飛んで、彼がどんな反応をするのか見てみたいという好奇心も抑えられなかった。


もう自分の馬券もどうでもいい。大事なのはスワーヴリチャードだけである。


では、ここからは皆様にも、彼の気持ちになって、天皇賞秋を見てほしい。

4枠⑤番 青帽子の馬である。


スタート直後、隣枠のマカヒキにぶつけられた瞬間、彼からは「ふはぁ」という嗚咽とも悲鳴とも取れない声が漏れた。

わたしは思わず噴き出したが、噴き出したのはわたしだけではなかった。

周りにいた全員が笑っていた

そう、皆が皆、彼を注視し、彼が負けた時にどんな姿になるのか好奇の目で見ていたのだ。

なんて冷たい世界だろう。

それにしても、スワーヴリチャードは1番人気だったのだから、フロアの中に買った人もいただろう。でも、そんな人をしてもさえも、スワーヴリチャードが飛ぶところを見たいと思わせたのだ。

一瞬のうちに、フロア全員の心を一つにした彼の求心力には目を見張るものがある。

イエスキリストの再来である。

そういえばキリストも裸足だった。

いつの時代も、神の子は理解されないものだ。



後方待機を余儀なくされたあとの最後の直線。

スワーヴリチャードは絶望的な位置にいた。


が、彼は諦めない。

これ以上ない声で、

「リチャ~~~~~~~ド~~~~~~~。リチャーーーーードーーーーー。りちゃぁあああああどぉおおおお~~~~~」

と絶叫する。

これを絶叫と言わなければ何を絶叫というのだろうか???

絶叫の見本として、国立博物館に展示したいくらい立派な絶叫であった。

有史以来、数えきれないほどのリチャードが存在してきたが、この時のスワーヴリチャードほど求められたリチャードはいなかったとわたしは断言できる。

(誰が何と言おうと、リチャードオブリチャードはスワーヴリチャードで決定である。異論は認めない)


この絶叫を太陽神が聞かないことがあるだろうか?
もし神が実在するなら、この救いを求める民の声を無視するなんてことはないはずだ。


だが、どうやら太陽神はいないようだ。

絶望的な位置というのは、絶望的な位置だから、絶望的な位置なのだ。

救いは起きない。

神は死んだ。

そして、終戦。。。


スワーヴリチャードは健闘虚しく10着であった。

いや、健闘したかどうかも怪しい。

正直、なんの見所もなかった。


いったい、太陽神の舞を踊るくらいの大勝負に負けた彼はどうなってしまうのだろうか?

泣き叫ぶのか?

それとも怒り猛るのか?


まさにフロア中の視線という視線が浴びせられたわけだが、彼は意外にも冷静だった。

精魂疲れ果ててのだろうか?

茫然自失としているのだろうか?

一瞬そんなことも考えたが、彼は何故か満面の笑みだった。


そして、彼は大声で「デムーロよく頑張った!感動した!」と小泉純一郎ばりに叫んだ後、「また来週だな」と呟き、颯爽とフロアを後にしたのだった。。。


この日2回目の「嘘やろ???」である。


太陽神の舞を踊るほどに入れ込んだ勝負に負けて、何という切り替えの速さであろうか?

まるで、試合が終われば勝ちも負けもない、と言わんばかりのノーサイドの精神。

もうスポーツマンシップの誉れとかを通り越して、狂気の沙汰としか思えない。

だいたいどこら辺にデムーロの頑張りが見えたのだろうか?


元から知っていたが、ここで再確認。彼は頭がおかしいのだ。



さて、前置きが長くなってしまったが、本題に入ろう。

だが、きっと賢明なる読者諸君は太陽神論がどういうものか想像がついているはずだ。


そう、もしあなたが競馬で、人生を賭けるような金額で、一か八かの勝負をするか悩んだ時、必ず自らに問うてほしい。


自分は公衆の面前で、太陽神の舞を踊れるだろうか?


もし無理なら、あなたはまだ勝負するだけの準備ができていない。

予想も突き詰められていないはずだし、何よりもそれだけの覚悟ができていない。


勝負というものに正面から向き合うことなく、ただただやぶれかぶれになってるだけだ。

だからそういう時は思いとどまってほしい。

外れたらきっと後悔する。


そう、太陽神理論とは、大勝負する前に「この勝負のために公衆の面前で、太陽神の舞を踊れるだろうか?」と自らに問い、イエスと言えない限り勝負はしないというものである。

(ここでイエスキリストとイエスを掛けるなんて、わたしはなんてインテリジェンスが高いのだろう。本来なら説明は蛇足であろうが、気づかれないと悲しいので、あえて触れておく。そこらへんもチャーミング過ぎて申し訳ない)



話が横道に逸れかけたが、わたしはこの日以来、負けたら死ぬような勝負はしていない。

なぜなら太陽神の舞なんか踊れるはずもないからだ。

きっと死ぬまで無理だろう。来世でも無理だ。


わたしはそんな感じだが、この広いTwitterの世界では、自らに問うた結果、イエスといえる人もいるのかもしれない。

それくらいの勝負をしなければいけない人がいることをわたしは否定しない。

そういう人は勝負に行っても良いだろう。それだけの心意気があるのなら、わたしは何も言わない。

そんな勝負ができるなんて羨ましいと思う気持ちが1%、そんな頭のおかしい人は人類のために淘汰されてほしいと思う気持ちが99%というだけである。


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