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感傷的にはなりきれない

帰宅ラッシュもひと段落した20時台の快速急行。分厚いプログラミングの参考書で重くなったリュックを膝に抱え、ヘッドフォンで音楽を聴いていた。目の前には腹の出たサラリーマンが立っていて、薄い灰色の縦線が入ったシャツを着ていた。一瞬、不機嫌そうな顔と目があったのですぐに目を逸らした。疲れていると誰でもそうなる。

聴いている曲がそういう気分にさせたのか、気がついたら大学時代の写真を眺めていた。ほとんどは所属していた演劇サークルで撮った写真で、僕は相変わらず、ぎこちない顔で笑っていたけれど、今より幸福そうにみえた。あの頃から一年以上経ったなんて信じられなかった。

スワイプを繰り返す。あの頃に戻れたらなあ、なんてありがちな感傷に浸っていた。あの時はあの時で悩みはつきなかったのに、思い出したくないことや後悔もたくさんあったのに、良いところだけ切り取って綺麗な額縁に入れようとする自分は不誠実だと思った。でも、他に向き合い方を知らない。

好きだった女の子の写真で指が止まった。彼女は今どうしているだろうか。去年の4月頃に少しだけLINEをして以来連絡をとっていない。毎年送っていた誕生日のメッセージすら、去年は送れなかった。送ってはいけない気がしたからだ。

彼女のことを思い出すときはお決まりの物や場面がある。いつか、彼女が背負っていたアディダスの黒いリュックサックもそのひとつで、僕は学食の券売機に並んでいた。ようやく自分の番が来て唐揚げ定食のボタンを押そうとした時「おはよう!」と声がしたので、横を見ると彼女がいた。僕も「おはよう」と返したが、彼女ほど感じよくはできなかったと思う。

普段彼女は肩がけの鞄を使っているのに、その日はサークルの都合でアディダスの黒いリュックサックを背負っていた。キャメル色のコートによく似合っていて、カジュアルな印象を与えていた。普段、どちらかといえば上品な服装をしている彼女を見慣れている僕にはとても新鮮で、ますます彼女に惹かれていったのを覚えている。



「次は、相模大野。相模大野です。車内にお忘れ物のないようにお気をつけください」

最寄駅への到着を知らせるアナウンスが流れて、眼を開けた。ヘッドフォンをしているのに、どうしてこの音だけは聞き逃さないのだろう。駅の改札を抜け、近くのスーパーで卵とベーコンと食パンを買った。レジ袋片手に踏み切り待ちをしていた時、なんとなく空を見上げると、ぼやけた満月が浮かんでいた。この一年でずいぶんと目が悪くなった。あの日の記憶も、時とともに輪郭が失われて、10年後には思い出すことも無くなるのだろう。目の前を電車が走り抜け、また引き戻される。


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