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チョートクのカメラノート📷🎥📹

カメラで本気出す。カメラに本気出す。ついでに写真芸術にも本気出す。2001年5月からスタートしたチョートクカメラ日記です。webマガジンは毎月定額1000円。単品で買うよりもかな… もっと読む
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#ウィーン

ウィーンウィーン雪の中のポルシェの風流1/17(水)

1975年の12月であったと思うけれども、もともとウィーンはそんなに雪が降る町ではない。というのもウィーンは非常に寒いところだから、1970年代は冬はマイナス10度以下になる。そうなるともう雪は降ってこない。さらに気温が下がるとアパートメントの前のドナウ運河の水が凍るのである。完全に変わった事は無いけれども、土地の古い人の話によれば、1955年にウィーンがまだアメリカやソ連に占領されていた頃は、ドナウ運河の水が氷になったそうである。私が暮らしていた時はそれほどの氷形ではないけ

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ニューヨークから戻った直後に、ツバメのぴーちゃん12/31(日)都心は19年ぶりの雨

家人の母親の持っている古いアルバムは、母親が樺太生まれて結婚して後は満州に住んだりしていたので、昭和天皇が登場したりとか、歴史的なモチーフが登場する。

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ニコンカメラとペリカンの万年筆 1/24(火)

40年前のオーストリア、ウィーンの生活の時に7年と6ヶ月かけて3000本位のフィルムを撮影した。これは全部モノクロフィルムである。

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ウィーンのクリスマスイヴ。誰も歩いていない12/24(土)

2005年のクリスマスイブのことだと思う。エプソンアールディーワンの写真集の撮影で12月にウィーンとプラハとユネスコの文化遺産のTelchに撮影に行った。ウィーンではシュテファン大聖堂のすぐ下のペンションに宿泊した。いつものことであるがウィーンのライカショップのオペレーターのところに行ったらそれがクリスマスイブの昼まであって、ペーターが言うには夕方ちょっと写真を撮りに来てくれないかな?というのである。

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まるでニュージャーマンシネマのワンショットのような11/28(月)

ウィーンの中心部からドナウ川を越えて北の方向に向かう路面電車は131番と231番と331番があった。ウィーンの路面電車の系統番号としては331というのが1番大きい。

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タバスコの思い出4/28(木)

アンディウォーホールはスロバキアの移民2世である。彼が有名になったのは1連のキャンベルスープの作品であるが、あれは日本だとなかなか一般的ではないものだ。第二次大戦後のキャンベルスープの存在感はギブミーチョコレートに準拠しているからかなり強烈なアメリカナイゼーションなのである。

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佃島のEnchan 4/17(日)

ドイツ語でEnteと言うのである。それを短くしたので家だけで通用する言葉なのであるが、かもさんのことをえんちゃんと何十年も呼びならわしている。

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1970年代ウィーンとライカの日々のリアリティー2/20(日)

ギャラリーバウハウスで3月の6日からウィーンとライカの日々と言うタイトルで私の何回目かの個展を開催するわけである。それで当時つまり70年代のwinの暮らしを思い出すにこの写真はその頃のDetailがかなり忠実に表現されていると思う。

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1000ミリの超望遠レンズでゴシックのタワーを手持ち撮影NEW2/7(月)

1970年代ウィーンに住んでいた後半になっていた一時期私はいつも1000ミリのレフレックスレンズをカメラバッグに入れてウィーンを歩きまわっていた。

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写真集をめくる ウィーンモノクロームセブンティーズ1/31(月)1月おはり

この写真集は最初のアイディアでは1000ページにする予定だった。それで実際に本がどのぐらい熱く(厚く)なるかと言うのを業界用語で束見本と言うのであるがそれを作ってもらったら重さが5キロもあって持ち上がらないことがわかった。それで半分の500ページにしたのである。

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ウィーン1973見慣れた街のスナップショットが重要である1/30(日)

3月から5月にかけて私のギャラリーバウハウスでの何度目かの写真展を開催するのである。ギャラリーオーナーの小瀧さんが、一昨年はウィーンでコロナがスタートしたときにギリギリでwinから逃げてきたと言う感じで今回の小瀧さんの写真展ウィーン旅の憂鬱が展開しているわけであるがその後に私がバトンタッチしてウィーンとライカの日々と言うタイトルで3月から5月までウィーンをテーマの写真展を展開する。

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1975年12月19日オーストリアウィーンの大雪の日の路面電車の終点12/29(水)

オーストリアのウィーンと言うところは冬にはあまり雪が降らない。雪が降るから寒いと言うのは素人考えであって本当に寒い街では雪などは降らなくてどんどん冷えていくのである。伝説では1945年にオーストリアがアメリカフランスソ連に占領されていた時に私が長く住んでいたドナウ運河の東側はソ連の占領地域であった。そこら辺の話であるが映画第3の男によく出てくるので何やら懐かしい。何しろオーストリアが永世中立国の宣言をしてそれが1955年であるから私が行ったのはたったその18年後なのである。ド

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最高のクリスマスプレゼント。四半世紀前の写真集のオリジナル原稿がカメラジャングルで発見される12/24メリークリスマス!

来週の月曜日にタワーマンションのエアコン関係の交換の大工事あり。バルコニーに作業の人が出るのでその通路を確保するためにカメラジャングルを発掘していたら、四半世紀前に日本カメラ社から出した「Wienとライカの日々」のオリジナル原稿が発掘された。

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ウィーン1973年ニコンSP とソ連製レンズを使っていた9/13(月)

1973年の5月からオーストリアウィーンに住みだして最初はカラーフィルムコダクロームで撮影をしたのである。それもコダクロームが3ヶ月位で全部使い切ってしまってその1連の仕事は翌年1974年1月号のカメラ毎日に掲載したのである。これは8ページほどであったがなかなか山岸さんがいい感じに選んでくださって気に入ったものであった。そこでトラブルが発生したのは、8ページ物の中の1ページに革命家の肖像と言うようなタイトルの街中に置かれているポスターのコラージュがあってそこには当時国交が樹立

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