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チョートクのカメラノート📷🎥📹

カメラで本気出す。カメラに本気出す。ついでに写真芸術にも本気出す。2001年5月からスタートしたチョートクカメラ日記です。webマガジンは毎月定額1000円。単品で買うよりもかな… もっと読む
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2021年8月の記事一覧

森さんの写真集京都を旅する。地蔵盆の頃8/31(火)

森さんの写真集京都が発行されたのは1969年である。スクエアなハードカバーの100ページ位の本であったがなかなか存在感があった。ニコンサロンとしては最初のニコンサロンブックスと言うシリーズなのでちょっと力を入れすぎてしまったようでイントロダクションの先生の書いている1分は何かガチガチの京都文化論みたいな感じで今の感覚からすると相容れないものがあるがこれは半世紀前の出版物のイントロダクションと捉えてみれば別に不思議なこともない。

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オリンパスワイドで森裕貴さんが撮影したニコンサロンから出た京都の写真集1969年8/30(月)

1969年に当時在学中だった日大写真学科の学生で1番最初に銀座ニコンサロンで写真展をやったのは私だと言うことをずいぶん何十年も自慢していた。ところがその前に1年ほど遡るが森裕貴 ^_^さんがニコンサロンで京都をテーマにした写真展を開催していたのである。これは今回何十年ぶりに森さんのハードカバーの写真集を手に入れて初めて知るところとなった。

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オリンパス35の製造番号下4桁が8888 8/29(日)

10年間使った日本発行のパスポートの最初の2つのアルファベットとその後のランダムな7桁の数字であるが10年間も旅行しているともちろん全部暗記しているから羽田空港に戻ってきたときにすらすら書くことができる。同行者がいたりすると頭が良いと褒められたりするのであるがそのくらいの事は何でもない。自分が写真家としてキャリアをスタートしたときのカメラの製造番号もよく覚えていて最初の1代目のニコンエフは6463471、2代目のニコンエフは6713702なのである。そして最初に手に入れたブラ

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オリーブの軍用ライカM3にコラプシブルの90ミリレンズをつけて起こった諸問題NEW8/28(土)

ライカの会社が軍用ライカと言うことでオリーブドラブの外相にしたらいかというのが200台位存在するのであるがこれもその1台である。確かロットは3つあって1番最後のロットの分はネックストラップアイレットが例の犬の耳ではなく普通のアイレットになっている。それと同時にオリーブドラブのレーザーの材質の目であるが最初の2つのロットは滑り止めのためにかなり荒い目になっているのに対して最後のロットだけは通常のライカのバルカナイトと同じで色がオリーブドラブである。だからコレクターの間では3つあ

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ウィーンのライカショップのペーターの近況を聞く8/20(金)

「ペーターは日本で何を30個食べたんですか、チャップリンがエビの天ぷらが大好きで一度に30本食べたと聞いたことがあります。日本からお国に船で帰るのにエビの天ぷらを出してくれる船会社を選んだそうです。」

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オリンパス35のオリジナルボックスの余白に記入された鉛筆文字が製造番号128888 8/27(金)

昔のフイルムカメラのオリジナルボックスには必ず商品管理のためにカメラのシリアルナンバーと同じ製造番号が鉛筆やペンで書かれている。アメリカではそれを全く専門に研究する人がいたりして、オリジナルボックスに同時に梱包されている保証書なども研究している人がいるのはすごい。昭和20年代のニコンのカメラなどは最終に出荷をチェックする人のオートグラフのほかに三文判が押してあったりするのでそこら辺までアメリカのコレクターが研究していると言うのは凄いことだと思う。

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昭和25年にできたオリンパス35のオリジナルボックスが素晴らしい8/26(木)

考えてみたらカメラメーカーの新製品発表会最後に乗ったのが15年前に出会ってちょうど今頃の暑い時期だったのでそれ以来、やめた理由にはPowerPointの説明ばかりでつまらないからである。それと暑い盛りであるからそこに来た若い編集者は全員爆睡しているのである。インターネットができる以前はフォトキナのプレス発表などはそこに行かなければ情報がわからないと言うこともあって我々も必死であったがインターネット時代になってしまうとなんとも生ぬるい。

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頭脳ペンタフレックスに似ているヤシカペンタマチック8/25(水)

1958年にその当時ニコンエフよりも進んだ一眼レフであったものに頭脳カメラがある。残念ながら立派な発表会までやりながらトラブルが多くて結局ほんのわずかしか発売されなかった。それで今ではカメラは動く動かないにかかわらずコレクターの間では1,000,000円と言う値段が付いているのは脳カメラである

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佃日記アーカイブ2009年6月8日 8/24(火)

2009/06/08チョートクカメラ日記 昨年の9月末にJTBの仕事でサンクトペテルブルグに行ったのである。 フィンランド湾に面した水の大都であって、まさに欧州を蒸留したようなロシアの美都だった。

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5年前パリの5月のスナップ8/23(月)

25年ほど前にウィリアムクラインが彼の回顧展のためにプラハのミュージアムで写真展をやったときに数日間通訳の真似事とアシスタントみたいなことで一緒に行動したことがあった。その時を思い出してみるにプラハやウィーンの話にはなったのだが彼が長いこと住んでいるパリの話にはならなかったのにはそれがなぜであったのかいまだに不思議でならない。

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間宮マガジン35の専用革ケースの不思議さ8/22(日)

12年ごとに間宮マガジン35のブームが来て今またそのブームが到来している。カメラ本体マガジンそして取扱説明書本箱フードとかいろいろあるのだがそれらは持っていて専用の革ケースがない。10年ほど前に専用革ケース付の米宮マガジン35を入手したがそれはボトムケースだけでアッパーケースはなかった。

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オリーブ色のライカとイエローサブマリンのゾルキー8/21(土)

30年近くライカの本を出したりして一見するとカメラに凝っているように誤解されているが実はカメラ等は何でも良いと考えている人間の1人である。結果とか記録が1番であると言う考え方からすればライカである必要は全然ないし私が暮らしていたオーストリアウィーンでも1番使っていたのはここに示すようなソ連製のカメラであった。その理由は単純であって要するにシンプルライフをしていたからだ。そこで不思議な心理状態になるのであるがウィーンの写真集などを編集しているときにブラックペイントのライカM3

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この四半世紀レンズはほとんどこれ1本8/19(木)

50年前にオーストリアウィーンに行った時最初に手に入れたのは私の持っていたニコンのアウトフィットとウィーンの写真家の持っていたライカのアウトフィットの物々交換で手に入れたのがいくつかのカメラと8枚弾の頭ミクロンであった。しかしあーゆーレンズはすぐ飽きてしまうので、その後ずいぶんいろいろなレンズを遍歴したのであるが、これは35ミリレンズあるいは3.5センチのレンズのことであるが結局は1995年にコシナレンダーが新しいライカマウントレンズのラインナップを出すことになってその仕事を

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野辺山への道 135ミリレンズの正しい使い方を教わった8/18(水)

私が10歳位の頃のアサヒカメラのフォトコンテストの上のほうの入賞者は1ページサイズに作品が掲載された。それで作品が横位置であるとすると90度画面は展開させて掲載するから見る方はそのたびに雑誌を90度回転させなければならない。少年の私はそれではそれで良いと思っていた。

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