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ぼくのなかの日本(第11回、父と子)

父と子

日本での数年間、父はずっと忙しかった。それこそ、バイトのある日は、睡眠時間を計算に入れても、自宅にいる時間より外出している時間のほうが長いくらいである。ぼくが登校する前から、父は昨夜の実験データを確認しに大学の研究室に行き、そこから夜のバイト先への直行することがよくあった。夕食前に帰ってくることがまるっきりなかったわけではないが、大抵は食事を5分ほどで済ませ、すぐにバイト先に50ccの中古スクーターで急ぐのである。帰宅前はいつも電話を入れ、たとえぼくが1人で留守番をしているときでも、さも当然のように「冷蔵庫にトマトと卵がある。炒めものを作ってくれ」の一言で電話を切る。そんなよくいえば子供を信頼してくれ、悪く言えば無責任な親のおかげで、ぼくはこの頃から料理の腕前をめきめき伸ばしていった。

父がぼくの料理でお腹いっぱいになり、「うん、美味しい、上達したね」と褒めてくれるのは当然嬉しい。だけど、できることなら、やはり自宅で一緒に食卓を囲みたかった。食器を片付ける間もなく、父は荷物を持ってドアを閉め、ブロロとエンジン音が遠ざかり、そして深夜に再び同じ音で接近し、立て付けの悪いドアをギーギー言わせながら、「フー」と長い息をついて入ってくる。この間約6時間くらいあるはずだが、父がいない間に起きることと、父のいる空間の出来事は、まるでパラレルワールドのようであり、ぼくはよく父が一瞬で帰ってきたような錯覚に襲われていた。

これだけ忙しければ、思春期突入直前の息子と話したいことが山程あるとしても、そうそう落ちついて話せるものではない。寡黙な親父の背中になぜか美徳のようなものを見出す日本だが、うちは中国人だ。子供の頃から父とはよく喋り、いたずらをすれば怒られ、ときに手を上げられたりした。説教の末にお尻を蹴られて、「くそオヤジ!くたばれ!」と心のなかで呪ったこともあったが、それよりも二人で碁を打ち、「うーん、こりゃまいった。オレの負けだ」と片目を瞑り、悔しさ半分嬉しさ半分で投了する父の顔のほうが、ぼくにはよほど印象深かった。しかし、日本ではそれもほとんどなくなった、だって、碁を一局を打つのに1時間以上はかかる、そんな時間は、父にはない。

父と一緒にいる時間を作りたいのなら、ぼくが大学の研究室に行かなければならない。若い学生の電話口での「はい、田中研究室です」の声が今も記憶に残っているため、ぼくは実際よく行っていたはずだ。「あの、お父さんいますか」と奇妙な聞き方をしても、向こうの学生は事情をよくわかっており、「ああ、君か、いるよ。今から来る?」と答え、そして「息子さんから電話ですよ!」と父を呼ぶ声が届いてくる。ぼくはいそいそと教科書をランドセルにしまい込み、俊英揃いの名大工学部の研究室で、実験機器の轟音を伴奏に、宿題を片付けるのだった。

忙しい父はたまに宿題の進み具合を確認するだけで、遊んでくれることはまずない。その代わり、後輩の日本人学生がいつも相手にしてくれた。夜までいることもあり、そのときは天体観測が趣味の学生がよく望遠鏡を工学部の裏の空き地に出し、角度を合わせてからぼくに見せていた。月のクレーターも土星の輪も、オリオン座の大星雲も、この頃にはじめて自分の目で見、そして星と同じように目を輝かせていたはずである。しばらくすると父がやってきて、「いつもすまん、本当にありがとう」とあの学生に言い、ぼくの語る星の話に自分の星座の知識を付け足し、二人で帰っていくのである。この数少ない親子水入らずの時間に、学校での悩みを話すことは一度もなかった、あのときの満足感が、どんな悩みをも消し去ってくれたからだ。

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