【はじめに】ソーシャルワークは「その人らしい生活」を守るための活動

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ある依頼者の銀行口座の開設に同行したときのことです。受付の人からこう言われると、彼はタブレットPCをじっと見つめ、何も言わないまま私のほうに振り向きました。この人はいままで機器の操作をしたことがありませんでした。

私は福祉分野の対人援助職で、いわゆるソーシャルワーカーをしています。となりの席で彼を手伝いながら、銀行口座の開設でさえも大きな壁があると思い知りました。

携帯電話をもっていなくて連絡先を記入できない、窓口の人の勧めるキャンペーンの内容が複雑でわかりにくい。手続きには、いくつものハードルがありました。それでも、彼はアパートを借りて新しい生活を始めるために、どうしてもこの日のうちに都市銀行の口座を開設する必要があったのです。

依頼者と一緒に問題の解決に取り組んでいるうちに、さまざまな障壁にぶつかります。携帯電話を契約できない事情があるとしたら、住民票がどこにあるかわからないとしたら、働きたくても働けない状況に陥ったとしたら、どうすれはいいのでしょう。彼の場合も、もし協力してくれる親族がいなかったら、銀行での手続きを進められなかったはずです。

これまで出会った依頼者のおかげで、私の社会への見方は大きく変わってきました。私の人生で一度も経験したことがない事態に遭遇し、その人の立場に立ってみると、そこには生きづらさを生む制約がたくさんあると気づきました。

一人の「困りごと」をとおして、他の人も直面しかねない課題が浮かび上がります。これはその人だけが抱えているようで、じつは社会がつくり出した困難でもあるのです。

仕事を失って携帯電話も解約せざるを得ない状況は、誰の身にも起こる可能性があります。限られた人のためではなく、すべての人が困ったときのために、社会福祉という仕組みは用意されています。

あなたは社会福祉にどんなイメージをもっていますか? 車椅子を押すような介護でしょうか、それとも福祉サービスの紹介でしょうか。

私は、身近な生活の場でさまざまな権利を守ることが社会福祉の役割だと考えます。たとえば銀行に口座を開くことの手伝いもそのひとつです。

本書では、この「その人らしい生活を守るための活動」をソーシャルワークと呼ぶことにします。

人権を守る職業といえば、最初に弁護士が思い浮かびます。万が一、逮捕や拘留、起訴されるようなことがあったら、彼らは心強い味方になってくれるでしょう。いざ裁判になれば法廷で自分の権利が守られるように闘ってくれるはずです。けれども、判決が出たら、そこで弁護士の役割も終わります。

そこからは、その人が生活をやり直すための住まいや仕事探しが始まります。もしお金がない、病気や障害を抱えているなどの事情があるときは、ソーシャルワーカーの援助を活用する選択肢があります。

司法手続きを専門にする弁護士と比べると、ソーシャルワーカーは日常の生活が舞台ということもあり、依頼者の権利を守る活動が見えにくいように思います。

しかし、日常の生活だからこそ「その人らしさ」を相手と一緒に実現させる機会に恵まれているとも言えます。この意味で、本書にはきっと、あなたの人生にかかわる話題も出てくるはずです。

「大変ですねえ」

車椅子を使う人と出かけた帰り道、タクシーの運転手さんが私に声をかけました。当時は20代だった私をねぎらってくれたのだと思います。

私はすぐに言葉が出てきませんでした。「……いえ別に」と、つぶやいただけで会話は続きません。

「いえ、少しも大変ではありませんよ。この人はとても魅力的で、今日の外出を楽しんだのは、むしろ私のほうだったんです!」

少しも遠慮することなく、このように言えばよかったと深く後悔しました。「いえ別に」の続きを何としても伝えたいのに、どうしても言葉にならなかったのです。

あれから20年以上が過ぎたいま、私は大学教員として、ソーシャルワーカーの養成に携わっています。

学生の中には、現場で実習するうちに「社会福祉を仕事に選ぶかどうか?」を迷う人が出てきます。よく話を聞いてみると、学生よりも親御さんのほうが社会福祉士や精神保健福祉士といった国家資格をとるのに熱心なこともあります。

社会福祉の資格をとらずに違う道に進んだら、大学で専攻したことが無駄になってしまいそうで怖い。そんな心配もあるのかもしれません。私はけっしてそんなことはなく、「ソーシャルワークの視点」がこれからの人生を支えてくれる場面はかならずあると思っています。

人生にはたくさんの道が拓かれていて、対人援助の仕事を選ばなくても学んだことは十分活きてくるのです。

「社会福祉の考え方は人生を豊かにする」

私はこう実感し、対人援助職の魅力に支えられてきました。しかし、こういった言い方も、まだこの仕事の本質を十分には表せていないもどかしさがあります。タクシーの運転手さんに、そして大学生やそのご家族に向けて、私の伝えたかったことをじっくりと綴ってみたいと思いました。

これまで私が出会ってきた人たちと、そこで得られた経験の素晴らしさは、とてもひと言では語り尽くせません。あなたにも「ソーシャルワークのある生き方」を知ってほしいとの思いを込めて、この本を贈ります。

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