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本当の気持ちでしか表現ができないのなら。

思えば、小さな頃からそうだった。

小学4年生。当時、4コマ漫画を描くことに熱中していた僕に「一緒にやりたい」と声をかけてくれた友だちがいた。それがたまらなく嬉しくて、昼休みになる度にできた漫画を見せ合いっこした。

自由帳はすぐに埋まって、また新しい自由帳を広げて、頭の中に膨らんだ小さな物語たちをかたちにした。4人くらいの仲間も増えて、「漫画同好会」なんて名前をつけた。けれども、それからしばらくして、気付けば僕はまた1人で漫画を描いていた。

小学5年生。友だちに三国志を勧められた僕は、彼を追うように図書室の本を読み始めた。この先に広がるおもしろさを伝えてくれる彼の声が頭に響いて、5分休みも、家に帰ってからも、とにかく本を読み進めた。

赤兎馬のような速さでめくるめく物語を読み進めていく僕は、彼の背中を捉えてしまった。追い抜いたことへの高揚感はなかったけれど、物語の続きが読みたかった僕を見た彼は「速すぎ、俺もういいや」と言って、最後まで読むのをやめてしまった。

小学6年生。相変わらず夢中になると止まらない僕。小体会の100mに出場することが決まってからというもの、昼休みは毎日のように走った。同じ競技に出る友だちが「俺も負けてられない」と言って、一緒に練習を始めてくれた。

けれども、その練習は長続きしなかった。僕はまた1人で走って、当日は全走者の中で2人だけの13秒台を叩きだした。けれども僕は2位で、別の組で走った友だちは1位だった。

遊びも、勉強も、きっと恋愛も。

数えきれないほど同じ場面を目の当たりにした。何かに夢中になれば誰かが離れていく感覚だけが残って、僕はいつしか本当の気持ちを隠すようになった。

そんな僕が共感したツイートには、必ずのように「周りの目なんか、気にしなければいいのに」といったリアクションが並んでいて、それを見た僕自身もそう感じていた。何か悪いことが続くと「原因は自分の中にあるはずだ」と思っていたし、その原因が他人であると語っている人を見るとイヤな気持ちになった。

— 同じ過ちを繰り返している原因は、君自身だ。

そこにいる「君」に僕自身を当てはめて、それなのにどこか遠くから眺めて、さも他人事のように振る舞った。いつしか僕は、「周りに気を遣う」ことが悪で、「自分らしく生きる」ことが正義だとさえ思うようになった。

正義に反する自分を許せず、本気にならない僕に価値を見出した。

そんな小さな頃の記憶というのは厄介で、なかなかどうして脳裏から剥がれてくれない。

今でも僕は「歯に衣着せぬ」生き方をしている友だちを尊敬しているし、「どこか冷めている」ように見えて熱い友だちが大好きだ。「自分らしい生き方」ができているというのは、とても素敵なことだと思う。

それでももし、あの頃の自分を許せるのなら。

僕は僕らしく、本気で表現がしたい。

前置きが長くなったけれど、僕の……いや、僕たちの企画について綴りたいと思います。

共にこの企画に挑む友だちが「アイデアを知らぬ誰かに真似されたくはない」と書いていたので、ここからは有料記事とさせていただきます。ぜひ、興味を持った方は読んでいただけると嬉しいです。

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