【ディスクレビュー】朝比奈隆指揮、大阪フィル、ベートーヴェン:交響曲第7番(1992ベルリンライヴ)

1992年11月9日、自由ベルリン放送協会(SFB)ゼンデザールにおけるライヴ録音
ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲
ベートーヴェン:交響曲第7番
Altus ALT317 2015年
※ベートーヴェンのみ過去にビクターから発売

会心の演奏

俵孝太郎はこのライヴ録音を

数ある朝比奈氏のベートーヴェンの演奏記録の中でも、まさに屈指のものだと思う。さすがに高齢を反映してきていたのか、これに先立つ大フィルとの全集ではやや伸び加減になっていたテンポも、ここでは引き締まっている。オーケストラの集中度も高い。

と評価している。(『朝比奈隆 栄光の軌跡』〔音楽之友社;1997年〕より、ビクター盤を聴いての記述)

また大阪フィルの事務局員だった宮下良介はAltus盤の解説書に

朝比奈隆はこのCDに収録されているベートーヴェンの交響曲第7番の演奏を非常に気に入っていました。以前ビクターからこの録音がCDとして発売されていた頃、朝比奈がよくこのCDを人にプレゼントしている場面を見たものです。

公演会場になったSFBハレは、自由ベルリン放送協会の中にある、非常に音響の良いホールで、朝比奈はこのホールをベルリンで一番好んでいると話していました。
本盤当日は、朝比奈も楽団員も残る力を出し切るような、大変なテンションの高さでした。普段、緊張とは無縁と思われた朝比奈も、後にも先にも見たことがないような高揚振りでした。

ベートーヴェンを振り終えて、袖に戻ってきた朝比奈を見るとその眼は涙ぐんでいました。「この日のためにベートーヴェンを演奏してきたんだ」とふるえる声で一言話すと、喝采に応え、ステージにまた出て行きました。
終演後には朝比奈の楽屋へ、ベルリン・フィルの元ティンパニスト、ウェルナー・テーリヒェン氏、ベルリン放送交響楽団の元コンサートマスター、豊田耕児などが表敬訪問しました。テーリヒェン氏は朝比奈に「我々がこれまでやってきたことと一緒だ」と賞賛、朝比奈をたいそうと喜ばせました。
帰国後、朝比奈が初めて大阪フィルの事務所に来た時、演奏旅行に同行した私たちに言いました、「楽しかっただろう!」。

と記し、指揮者とオーケストラがともに燃えた演奏の記憶を振り返る。

確かにホールトーンの助けもあるのか、遅いテンポのなかで音楽はスッとまとまって流れ、ほどよい緊張の貫く押し出しのいいサウンドが展開する。
第2楽章のほの暗い痛切さなど同曲異演とはひと味違う質感であり、名演奏なのは疑いない。

しかし、解説書の文章からは何も感じ取れないがこの演奏旅行の前、朝比奈隆と大阪フィルの間には激しい確執があったのだ。

崩れかけた足元

1992年7月のある日、大阪フィルの楽団員は音楽総監督の朝比奈隆の棒に反応せず、定期演奏会のリハーサルをボイコットした。
遡ること数年前から待遇面などで楽団員の不満が高まり、組合を形成して音楽総監督の朝比奈隆に声をあげていた。当事者間の溝は次第に深まり、ついに楽団員は集団行動をとってオーケストラの「現状」を表に出すと決意し、ボイコットに至った。騒動は毎日新聞(関西版)でも報じられ、大きな波紋を呼ぶ。

朝比奈隆と同い年のカラヤンも晩年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と軋轢を起こしたが彼らは演奏の水準を大きく落とすことはなかった。

だが、当時朝比奈隆は健康不安を抱え、他方大阪フィルは中堅世代の腕利き奏者が新興の大阪センチュリー交響楽団(現在の日本センチュリー交響楽団。長く事務局長として大阪フィルを裏で取り仕切ったが、1986年秋に二人三脚だったはずの朝比奈の手で更迭された野口幸助が移っていた)に引き抜かれ、一枚岩のはずの楽団員の間にも組合の活動を巡る「温度差」が生じていた。
内部対立の影響を演奏に及ぼさないだけの基礎体力はなく、大阪フィルの評価は急降下。
ゴタゴタを嘆く声や朝比奈隆の「長期政権」の弊害を暗に指摘する意見が新聞紙面に載った。

先に引用した俵孝太郎の文章にある「大フィルとの(ベートーヴェンの交響曲)全集」はちょうどこの時期に録音が進められていた(ポニーキャニオン〔現在タワーレコード×EXTONの共同企画盤で入手可能〕)。
この全集には「高齢を反映」したというより、演奏現場のドタバタが制作にも悪影響を及ぼした形跡が認められる。
例えば第7番は1992年6月にセッション録音されたが第1楽章の終盤に楽器が落ちていたり、第3楽章に編集ミスがある。
朝比奈隆と大阪フィルの顔合わせが大揺れするなか、とにかくカラヤンの記録を抜く通算5回目の全集録音を完成させなければと焦っていたのだろう。

目前に迫った欧州公演も危ぶまれたが、朝比奈隆が人事の刷新や運営体制の再構築など楽団員側の要求を受け入れたことで何とか実行にこぎつける。
ファンに愛されていたはずの「名コンビ」は瓦解の一歩手前で踏みとどまった。

瀬戸際で再出発できた「強運」

こうした背景を踏まえると解説書で描かれる朝比奈隆の「涙」が単に感極まったとは若干違う様相に見えてくる。自身のオーケストラ(ポスト)を失いかねない状況に追い込まれたなかで何とか持ちこたえ、ベルリンでライフワークのベートーヴェンをできた・・・色々な思いがないまぜになり、こみ上げたと推測する。

思わぬ内側からの逆風に見舞われたうえ、ベルリン公演の「やりとげた感」があったのかベートーヴェンの第9演奏会の指揮を委ねた小林研一郎へのメッセイジや音楽雑誌に寄せた小文に「告別の辞」めいた気持ちを漏らした。
一方でテーリヒェンの賞賛、現地評の一定の評価を得たことが帰国後の「楽しかった」に繋がり、まだまだやれると意を強くしたことも事実だろう。以降朝比奈隆は楽団員、運営側の双方と微妙な距離を取りつつ、「勇退」論は牽制し、少しずつ態勢の持ち直しを図っていった。

土壇場から好演を成し遂げたのは朝比奈隆の持つ運の強さかもしれない。長生きして現役を張り続けるにはやはりそうした「運」が不可欠だと感じる。

※文中敬称略

【参考文献】

中丸美繪『オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆四つの試練』(中公文庫;2012年)
ONTOMOMOOK『朝比奈隆 栄光の軌跡』(音楽之友社;1997年)

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