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「辞めさせるなら、それを専任した人がまず責任をとりなさいよって」。元楽天監督・大久保博元 氏インタビュー

故・星野仙一監督の後任として15年シーズンに楽天を率いた大久保博元氏。在任中から不穏なウワサが絶えなかった当時の労苦を、自らの言葉で赤裸々に語る。

──15年シーズンは結局、最下位。1年での退任となりました。

大久保(以下、大) 星野監督から受け継いだときが6位だったから「最低でも1つは上げなきゃ意味ないな」とは思ってたんですけどね。ビリっていうやりやすい順位で渡してもらったのに結果が出せなかったこと。それと、コーチ陣を守れなかったことに関しては、いまでも悔いはありますよ。

──シーズン途中には「オーナーによる現場介入」がメディアで報じられて物議を醸しました。

 まぁそこは、いつのまにか話が全然違ってくる伝言ゲームみたいなものでさ。要は、データに基づいて分析をする「戦略室」っていうのがあって、そこから何通りかのプランが降りてきてたってだけなんです。たとえば、ペーニャは得点圏打率は全然だけど、出塁率は高いから2番に置くほうがいいんじゃないかとか、その手の「提案」が試合ごとに出てくるわけ。一応、最終決定を下していたのは僕らだから、「介入」って言い方をされると、「ちょっと違う」とは言いたくなるよね。

──とはいえ、その間には田代富雄・打撃コーチの唐突な退団という〝事件〟があったりも。

 あれにはガックリきましたね。実は監督になるってときに僕からした、ほとんど唯一のお願いっていうのが「1年間は1、2軍のコーチを変えないでほしい」ってこと。内部昇格だったし、その他の条件に関しては、ぜんぶ言いなりでいいから「それだけはお願いします」って言ったんです。そしたら早々にあんなことになっちゃって、「なんじゃそら」と。もっとも契約書には書いていないただの口約束だったから、いまさら証明のしようもないんだけどね。

──決定権はほとんどなく?

 監督と言ったって、しょせんは雇われの身。コーチ人事にしたって、苫篠(誠治)さんと田口(昌徳)を入れてもらった以外、僕はまったくノータッチでしたしね。そもそも一度決めたことを途中でひっくり返すってカッコ悪いと、僕は思う。辞めさせるなら、それを専任した人がまず責任をとりなさいよって話ですもんね。

                               (つづく)

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【プロフィール】
大久保博元
1967年、茨城県生まれ。84年のドラフト1位で西武に入団。92年途中に巨人へと移籍し、“デーブ”の愛称で親しまれた。95年に引退後、タレント活動などを経て、08年から西武の1軍打撃コーチとして現場に復帰。楽天では12年から1軍打撃コーチ、2軍監督、1軍の監督代行を歴任し、14年オフに監督就任。シーズン終了まで指揮を執った。

故・星野仙一監督を「オヤジ」と呼んで慕うが、「『監督を男にしたい』と公言するやつはコーチに向かない」が信条。裁判を経て和解した西武球団との一件も「ライオンズのほうが俺のことをよく見てて『そういう指導じゃダメだったんだよ』って言ってんのに、なんで俺、喧嘩してんだろって裁判中に気づいた」と包み隠さず語っている。

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