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「何もかも憂鬱な夜に」

「当たり前って残酷な言葉だよね」

ということを、誰が言っていたのを覚えている。誰が言ったかは今となっては皆目検討つかないのだが、流れている血液を止めるような、その言葉が持つ力はずっと心の中に残っている。  

布団に入るが寝付けず、考えて事をするようなふとした瞬間に、この言葉を思い出し、嗚呼…と野太い声をあげ悶える事がある。頭の中にこべり付き離れることはない。振り払おうとしても蜘蛛の巣のようにずっと引っ付いてくる。 


当たり前の事ができなくなった時があった。 


僕が大学4年生の時で、ちょうど東日本大震災が起こった時でもあった。

実は、当時の大学生の僕は、何をやっても上手くいった時だった。  

このように書くと自分でもくすぐったくなるのだが、勉学にしてもプライベートでも、生活は充実していた。 

その中でも特に自分の人生を満足させていたことが、先輩と共にしたネパールの孤児院のための柔道場建設だった。無事に建設ができネパールの人たちも喜んでくれた。その様子を見て自分も嬉しかった。

だが、自分の思いもしなかった意外なところにまで波及効果があった。 

柔道場を建てた結果もついてきたおかげで学内のみならず、色んなメディアが自分の話しを聞きにくれるようになったのだ。 


幼少から華々しい人生とは無縁の生活であり、周りの人から目立たないように黒い服しか着ることしかできなかった自分が、急に表舞台で立つ事が多くなった。  

習い事も特にやっておらず、部活でも大した成績を残した事なかった自分が、人生で初めてもらった賞状が「学生表彰」という大学で一番活躍した学生にもらえる賞をいただけることになった。  

もちろん、その結果については僕自身も嬉しいというのが正直な気持ちだ。自分の存在が認められた感じもした。  


今までの人生から一変したように人生が変わったのだが、僕以上に変わったものが一つあった。 


「次の目標とか、これからの未来の展望を聞きたいです!」 


「もっと大きいこと成し遂げてくださいね!!」  


何よりも変わったのは周囲から自分を見る視線だ。

何か結果を残した人に対して、周囲の人はさらに期待をするのだ。  次はもっと大きいことをしてほしい、と。それは本当に純粋に応援している気持ちであり、その姿勢に悪などは一つもない。

だが周りの人が僕を見つめる視線と、そして僕が見ている視線、そのお互いが見ている焦点が全く合っていない。

僕は何かを成し遂げたいという思いで目指しているわけでもなく、ただただ自分が楽しくやっていただけだった。 

何かをやったところで自分の気持ちや性格も一変することなんてないのに、周囲の人は自分のことをすごい人だと距離をとっていっていた。  


そんな彼らの期待に応えるためには何をしたらいい?また柔道場を建てればいいのか?いや、一度やっているし、それだと周りの人が期待しているものでもない。 

周囲の期待に応えようと、心の中を掻き毟られるように焦ってしまった。

今までは、自分のペースで歩き、気が向いた時にジョギングするような歩みの人生だったのに、周囲の人の期待は僕をランニングマシーンに乗せて「もっと走れ」と言っているようだった。 


大学生当時から色んな場所でネパールの活動を喋る機会をもらっていた。 

ある日の講演会の時だった。  

いつも喋っている言葉なのに、急に頭の中ですっぽりと言葉が抜けた。  

ここではこれを伝えるというのが決まっているのに、急に何を喋ればいいのか全くわからなくなった。

なんだ?何を喋ればいい?考えれば考えるほど頭が真っ白で、水を握ろうとするよに言葉がすり抜けていった。  

その場は切り抜けたが、それからが地獄の始まりだった。


大学の講義室で扉が閉じられた時に、理由は分からないのだが、この教室から出らないかもしれない、という今ままで感じたことのない恐怖が襲ってきた。 

密閉されて逃げれないと感じると、夢の中で誰かに追われて走っている時のような、自分の意思とは別に身体が言うことが効かない感じになった。  


電車に乗っても同じようになった。 

電車の方が症状がひどく、電車が閉じて走り出すと、呼吸の仕方が分からなくなった。空気を吸うのだけど、次の空気を吐く動作が一連の流れにならず、空気を何度も吸ってしまう。  

僕は小田急線を使うのだが、快速を使ってしまうと新百合ヶ丘から町田まで一気に進むので、その間10分強の時間閉ざされてしまう。時間が倍以上かかかってしまうが、各駅停車を使って乗るようになった。 


そして、徐々に電車に乗るのもつらくなり、家にこもるようになる。 

家の中でも辛かったのはメールの返信だ。電話ならまだ何とか自分の意思を伝えられても、メールの返信の文章を考えるだけで、体力を全て使ったようになった。

メールを返すと、ぐったりとして、あとは寝込むようになった。  


友人から会おうとの誘いがくる。

誘われて嬉しい気持ちがのは確かなのだが、どうしても気持ちが高まらない。友達と会った時に自分がテンション低い姿を見せるのが申し訳ない。

約束した時間の30分ほど早く行き、コンビニでお酒を買って、一気に飲み干してから友人と会うようにした。  


今まで当たり前に思っていた日常とは、こんなにも脆いものだ。 


最終的には、お店で買い物ができなくなった。 

例えば「654円です」と言われても、その数字が何を意味しているのかが分からなくなった。600…600…、6?なんだ、その数字は?と自分の財布の小銭を見てもお金が取り出せない。 

とりあえず1000円札を出せばこの買い物は切り抜けると思って買い物を済ませる。そんな買い物をずっと続けたので、小銭が財布に入りきらず、カバンの中で小銭が溢れかえった。  


勇気を振り絞って、今の自分がどうしようもない。ということ友達に打ち明けた。  

でも友人も今まであれだけ活動的に動いていた自分が弱音を吐く事が信じられなかったようで、叱咤激励のつもりで「負けるな、古屋ならもっとできるはずだ、頑張れ」という言葉をくれる。 

友人の言葉にありがとうと感謝して、そうだよな、友達の言う通りだ、自分はこんなはずではないと奮い立たせようとするのだが、気持ちと体が一致しない。

そして、友人の期待の励ましに応えられない…とまた自分を責めていた。 


どうしようもいかなくなった僕は入院することになった。 

大学卒業するまでは、誰よりも期待されていたのに落ちて行くのは一瞬だ。 


自分が入院していることを知らない友人が、自分が今、どんな活躍をしているのかとのメールが送られてきた。

正直に今、活躍も何も入院して身動き取れない状態だと伝えると、そんなお前を知りたくなかったと返信がきた。 連絡をしたのは相手なのに、何もしていないというだけで、僕は人を傷つけるのかと何ともやるせ無い気持ちになった。

勝手に期待され、勝手に僕が裏切っている事にされる。人が期待するほど迷惑なことはない。 


入院する前が一番絶望を感じた。だが、どん底だからこそ希望の光も見えた。

自分のことを見捨てなかった医者にも感謝しているが、僕にとっての光は入院していた時に出会うことができた同病の患者たちだ。

誰にも理解されず、症状を話しても否定さ続けていたが、ここでようやく自分の心を理解してくれ「そうそう、それ辛いよね」と共感してくれる人たちがいた。

ようやく一人ではないと思えるようになった。

病棟が一緒の人たちと会話することで、お互いの傷を舐め合うように、それは僕たちの本当の意味での癒しだった。 


入院して1ヶ月くらいした後で、ようやく外出できる許可が出た。 

久々の外出。今まで味の薄い病院食しか食べていなかったが、コンビニで味の濃いオニギリなどを頬張り一噛み一噛み唸るように噛み締めた。  

入院患者の中では、こうやって外で食事を取ることを「しゃばの飯」と呼んでいた。ようやくこの味を再び食べれるようになったと、自分の進歩を感じさせてくれる。 


入院して2ヶ月くらい経ち、だいぶ気持ちも落ち着くようになると、少しずつ活力も出始めていて、何か考えたり思考することができるようになった。  


昔、徳川家康の肖像が戦で負けた時のもものを使っていると聞いた事があった。負け戦という自分が一番屈辱的な時だからこそ、絶対に忘れないように自画像として残そうと思ったそうだ。  

自分も入院して人生で絶望を経験している時だからこそ、この時に写真を撮って残しておこうと思った。 


病院の近くに横浜外国人墓地という観光地があった。 

墓地であるのだが、そこは西洋の格調高さを含んだ墓地で、横浜の観光スポットの一つでもある。その背景をバックに自分の記念の写真を撮ろうと思った。  


仲良くなった入院患者にカメラマンとしてお願いして、歩いて30分くらいかけて外国人墓地まで一緒に行ったのだ。

外国人墓地は自分の想像していた以上に綺麗な場所で、澄み渡る空気は下界と切り離すように、そして静謐とも言える時間が流れていた。


元々写真嫌いであった自分であったが、こんな時くらいしか自分の写真は残さないだろうと思って、モデルのように何枚も撮ってもらった。  

カメラマンとして付いてきてもらったお礼として、その患者さんの写真も撮った。 恥ずかしそうにしながらも、写真を撮ってもらったと喜んでくれていた。 


季節が一つ半くらい進んだ冬。 入院して4ヶ月が経ち、僕もようやく退院する事ができた。  


もう買い物する時に、お金が理解できないこともない。

電車にも普通に乗る事ができるようになった。  


当たり前がようやく僕に帰ってきたのだ。 



 「当たり前って残酷な言葉だよね」 


失ってみて思う。 

日常生活の当たり前に思っている事がどれだけ尊い行為だったのか。

周りの人の期待に振り回されて、どれだけ自分を見失っていたことか。  

あの時の思いを忘れないために、今自分のFacebookやツイッター、ラインなど全てのSNS のプロフール写真は入院した時に撮った写真を使っている。 


もう入院していたのは8年前の話であり、今の自分はだいぶ老けてきている。 

自分のSNSの写真をみた人が、この写真を使うのは詐欺だとか言ってくる。

しかし、あの当時の写真を日常の生活で毎日見るところにおき、

今の自分は当たり前に感謝できているか、今の自分は何かを見失ってないか、今の自分はしっかりと自分の軸で生きているのか、日々確認するようにしている。  


もうあの絶望には戻らないように。 

 「何もかもが憂鬱な夜」には、そんな僕が入院している最中に読んだ本です。死刑囚の山井とその死刑を見届ける刑務官の永山。生きることを放棄しようとする山井に、永山は生きることの意味を説いてくれます。暗い闇を歩いてくような本であるが、暗いからこそ光が見えるものです。夜、寝付けないほど孤独を感じた時、この本はあなたの側にいてくれます。 


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