古屋祐輔

ブックカバーチャレンジというバトンが回ってきて、本を紹介して欲しいと頼まれました。普通…

古屋祐輔

ブックカバーチャレンジというバトンが回ってきて、本を紹介して欲しいと頼まれました。普通にブックカバーを紹介するよりも自分の人生の傍らに本がいたことを紹介できればと思います。 敬愛する人は又吉直樹。「第2図書係補佐」をイメージしています。

最近の記事

『人のセックスを笑うな』

ファーストキスはレモン味。 どこが発祥でこの話が生まれたのだろうか。 きっとファーストキスは誰にしも酸っぱくて、けして甘くとろけるようなものではないのだろう。 唇が触れ合う単純な行為であるのだが、人間はキスに愛情という意味を付け加えた。 動物はセックスはしたとしてもキスはしない。 人間にだけ愛という意味を授けられたキス。 そんなキスを初めてするときは、レモンのような水気たっぷりの酸っぱい味が広がる。 少し刺激的で、大人の味がする。 僕のファーストキ

    • 「アルジャーノンに花束を」

      幼い時の僕たちには血の繋がりの意味は分からなかった。 なぜなら同じ団地で暮らしていて、毎日のように顔を合わせて遊んでいれば、それは家族と変わりなかった。 団地には僕と同い年の友達が8人いた。 8人は毎日、団地にある広場や公園でサッカーをしたり、近くの田んぼでザリガニを捕まえたりして遊んでいた。 団地特有の関係性なのだが、団地で暮らす両親たちは夜、働きに行って、夜中ずっといないこともよくある。その場合は友達の家が預けられて、一緒に夕飯を食べたりもするのだ。 6歳になり

      • 「わたしを離さないで」

        人間には生きていると壁とぶつかり、それを乗り越えようとして強くなっていく。 ある人にとっては恋人との別れが壁になるかもしれないし、ある人にとっては威厳ある父親の存在が壁になるかもしれない。また病のように自分の手でどうしようもできないものが壁として人生を塞いでくるかもしれない。 僕が人生において初めて壁を感じたのは「夢」だった。 小学生の時にこの「夢」という言葉は僕の前に立ち塞が入り、前に進もうとするのを止めた。 僕には将来の夢がなかったのだ。 小学生の時に

        • 「何もかも憂鬱な夜に」

          「当たり前って残酷な言葉だよね」 ということを、誰が言っていたのを覚えている。誰が言ったかは今となっては皆目検討つかないのだが、流れている血液を止めるような、その言葉が持つ力はずっと心の中に残っている。 布団に入るが寝付けず、考えて事をするようなふとした瞬間に、この言葉を思い出し、嗚呼…と野太い声をあげ悶える事がある。頭の中にこべり付き離れることはない。振り払おうとしても蜘蛛の巣のようにずっと引っ付いてくる。 当たり前の事ができなくなった時があった。 僕が大学4

        『人のセックスを笑うな』

          「何者」

          人間は誰しもが何者かになりたいという欲求を持っている。 今の僕には肩書きがないことが悩ましい。 終電近くの深夜の東京を歩いていると警察に職務質問をされることがある。僕が日本でも平然とネパールで買ったド派手な服を着ているのが原因だろう。 その時に所属している会社名など示して、皆に評価される肩書きがあればいいのだが、あいにく僕は持ち合わせていない。 「普段は何をしているんだ?」と聞かれて「普段は日本で生活していなくて、ネパールという国で暮らしているんです、、、よ」と言う

          「何者」

          『きよしこ』

          子供は素直。 とはよく言うものだが、僕は子供の時の方が自分の感情を押し殺して生きている事が多いと思う。 広い世界を知らない子供にとって、自分の周りにいる数人が話す会話しか正しいとしか思えず、その小さな世界で生き延びるために必死に自分の心を隠そうとしないといけない。 僕は幼い時にアニメを見てこなかった。 僕が小学生の時はドラゴンボールや幽遊白書など少年ジャンプ全盛期だったのだが、人が殴ったり戦っているところに恐ろしさを感じてしまい見ることができなかった。 しかし僕ら

          『きよしこ』

          『ぼくらの地球の治し方』

          本の紹介や、書評をする人たちは多いのだが、ここでは本を書いた作者について紹介しよう。 僕がこの「ぼくらの地球の治し方」の著者の藤原さんと出会ったのは3年前になる。僕もネパールで生活し始めてまだ半年ほどで、ネパールについてや、自分が本当に何ができるのかとかあやふやな時だった。 ネパールの繁華街を歩いていると、知り合いの日本人がいた。その日本人は大学生でネパールの孤児院の支援の活動などをしている。ネパールで何かしている人たちは横の繋がりなどがあり、お互いのことを知っている

          『ぼくらの地球の治し方』

          『長嶋少年』

          僕には友達ではなく盟友という人が一人いる。 小学校の時の友人のYだ。Yは僕の小学校時代の一番のガキ大将だ。ドッチボールと腕相撲は誰よりも強く、Yは小学校の時から競馬にハマっていた。 小学校の 卒業式。 僕たちは保護者や在校生の前で一人一人これからの抱負を語るというイベントがあった。 「中学生になっても友達と仲良く、勉強頑張ります」「部活頑張ります」とか小学生のありきたりな発表が続く中で、Yの順番になった。Yは4クラスしかない学年の6年4組で出席番号も一番最後。この学年

          『長嶋少年』

          「炎上する君」

          僕の小学校は神奈川県で一番敷地面積が広い小学校だった。 グラウンドも上の校庭、下の校庭と2面あった。 上の校庭と下の校庭を結ぶ30メートルくらいはあるジャンボ滑り台という子供を夢中にさせる遊具もあった。他にもどんぐり山や、梅林、杉林などもあり、自然との触れ合う機会が学校の中に多かった。 そんな広大な敷地の学校だったので、普通の公立学校なのだが、校則などに縛られない自由な学校であった。 ランドセルを使うかどうかを個人の自由に任され、僕はランドセルが嫌いだった

          「炎上する君」

          「サピエンス全史」

          小学校の6年生になって社会の授業が歴史に変わった。 それまで小学校での社会の勉強は、農家の人の家にお邪魔りしたり、工場に見学したりとアトラクションっぽい授業だったのに、歴史の授業になって一気に勉強らしくなった。 歴史の最初は縄文時代からの勉強だ。 縄文土器についてや狩猟で生活をしていたとか、大きなゴミ箱である貝塚などの勉強をした。 僕は神奈川出身だったので大森貝塚は意外と近いところにあるんだとも思った。 そして時代は弥生時代に入った。 弥生時代になると土器の

          「サピエンス全史」

          『一塁手の生還』

          僕は大の大の大の野球ファンだ。 小さい時から新聞のスポーツ欄を読み、野球選手の成績をチェックするのが日課だった。 中学生になった時には、筆箱とか下敷きはベイスターズを使っていた。 クラスのみんなはDragon AshのCDを買い、音楽を楽しんでいる中、僕は横浜ベイスターズの応援歌CDを聞いていた。授業中つまらなければ、ノートの切れ端に今年のタイトルホルダー予想や、12球団の戦力図などを書いて楽しんでいた。僕の10代は野球と共に生きていた。 中学校3年生の時であ

          『一塁手の生還』

          「不道徳教育講座」

          小学校の6年生の時に道徳と理科の時間だけ、担任の先生でなく、学年の専科の先生の授業だった。 40半ばの男性の先生で、身体は細身。いつも手で頰をさするのが癖だった。 僕の小学校の6年生の時のクラスは自己主張の強い生徒たちが多く、担任の先生はそれを力でねじ伏せようと怒鳴る先生だったので、クラスのみんなのストレスのはけ口がその道徳と理科の先生にいった。 道徳と理科の授業になると、担任に縮こまっていた友達もその先生の授業の時には机を叩いたり、ものを投げたりと授業をするような環境

          「不道徳教育講座」

          「イチロー 262のNEXTメッセージ」

          大学時代の僕には悪い癖があった。 酒に溺れてしまうことだ。 大学時代の最後の卒業旅行はみんなで箱根旅行に行った。いつどこで怪我したのか分からないのだが、朝起きると足首を捻挫していた。 「昨日、俺は一体何をしていた?」と聞くと、酔っ払って、一人で踊って、転んでそのまま寝てたらしい。なんとも無様な姿だろう。次の日にみんなで箱根の彫刻の森美術館に行く予定だったのが、僕は一人、箱根の足湯で捻挫した足を浸し、傷を癒すだけで終わってしまった。 もう一つ印象深い酒での失敗は大学2

          「イチロー 262のNEXTメッセージ」