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「◯◯の時代」が終わるとき

「◯◯の時代」というとき、それはたいてい「◯◯がメジャーになりました」ということではなく「まだマイナーながらも◯◯が無視できなくなってきました」ということだったりする。そういう変化率が大きいときに使われる言葉。

たとえば、「個の時代」とはもう言わなくなりました。

でもそれは、パワーのある個がいなくなったわけじゃなくて、別に言わなくても分かってるから言うまでもない、ということ。個人の活躍が注視すべきフェーズを脱したとも言えます。

でもそれは、個がマイナーを脱してメジャーになったというわけではありません。実際、行政や市場や国際的なネットワークのほうが、個人に比べてその影響力ははるかに大きいわけで。

つまり、「◯◯の時代」という言葉が使われなくなるのは、変化率が小さくなってきた、ということ。メジャーかマイナーかは関係ない。

例えばメジャーなのに「◯◯の時代」と言わないものとして「グローバルの時代」が思い浮かびます。これもグローバル化の変化率が以前よりも小さくなり(それでも十分大きいですが)、言うまでもないくらい当たり前になってきたからだと思います。

もし「グローバルの時代」という言葉を使うとしたら、それはその影響が最近になってやってきてビックリしている領域とかに限定されるんじゃないかな。

まとめると「◯◯の時代」は変化率が大きいときに使われ始める言葉で、変化率が小さくなってくると「グローバルの時代」のようにメジャーになっていようが「個の時代」のようにマイナーなままだろうが関係なく、言葉として使われなくなっていく。


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そういえば最近は「個の時代」に代わって「コミュニティの時代」と言う人もいて、それはポジショントークかもしれないけど、当たっている気がします。

でもよく考えてみると、実はコミュニティ自体は地縁や血縁をベースにしたものや、趣味、思想、宗教をベースにしたものまで、実はこれまでもあったものです。だから、「コミュニティの時代」とは、既にあったコミュニティのなかでも特殊なタイプのものが目立つようになってきた(変化率が大きい)、ということなんだと思います。

それは一言でいえば「人工的コミュニティ」とでも呼べるものです。それ以外には「自然発生的コミュニティ」(地域コミュニティなど)や「社会制度的コミュニティ」(学校、企業など)があり、これはずっと昔からあったものです。

「人工的コミュニティ」はたとえば、個人が立ち上げるオンラインサロンや、企業がマーケティングを目的に立ち上げるファンコミュニティが、それにあたります。わたしが主宰する議論メシもその1つでしょう。

だから、「◯◯の時代」のカタチで今のコミュニティの潮流を言い表すとしたら、それは「人工的コミュニティの時代」なのだと思います。

だから、わたしたちはこれから人工的コミュニティとの付き合い方を考えていく必要があるんじゃないかなと思ったりしています。また、人工的コミュニティと自然発生的コミュニティと社会制度的コミュニティの役割分担も。

そんなことを考えながらも、今度はどんな「◯◯の時代」という言葉が使われるようになるのか、妄想を膨らませていたりもします。楽しみですね。

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