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中西進『花のかたち』─日本人と桜【近代】(角川書店)

 同タイトル【古典】に続く本。桜と桜に魅入られた文学作品が並ぶ。短歌、俳句、小説、歌舞伎など。短歌では河野裕子『桜森』中の連作「花」が取り上げられ、存分に論じられている。
 この【古典】【近代】の2冊は角川『短歌』昭和61(1986)年4月号から平成6(1994)年6月号に「花の象〈かたち〉」というタイトルで連載されたもの。誰よりも中西自身が桜という花に魅入られた人なのだということが分かる。

「太陽と桜と月と、など」

 さくら(抄出)昭和19年(1944)作 金子光晴 『落下傘」(昭和23年)(1949)所収 
ことしの春を送る花。/この国のやさしい女たちの/いのちのかぎり、悔もなく/天にも地にも咲映えて。//八重一重/手鞠、緋ざくら、/遅桜。//にほやかなさくらしぐれに肌うづもれて/世のしれものの私は、陶然として、/ただおもふ。//さくらよ。/だまされるな。
〈本当は美しい桜―螺鈿のような、卍と降り、白象のねり歩くような桜ですら、日本人は美を見ないで「日本の心」をいうようになった。〉〈昭和十九年という時代の桜は、たしかに金子がはげしく憎悪するような、歪められた桜であった。〉
 桜を女に喩える、それもどこか淫らな、哀しくもまた美しい女という見方が一つのパターンとも思える。そしてそれが軍国主義的に捉えられることを憎悪するというのも。それであってもこの詩はかなり読み応えのある興味深い詩だ。

「白桜集」
憐みを多く知るとも島ざくら花白ければ思はれぞする(嶺頭春色)与謝野晶子
〈この一首にも、桜を白く見る中に負の影が濃い。「憐み」とはもちろん寛の死、わが命の衰えの自覚があるであろう。晶子は一年前の春を病んで、桜の歌を『白桜集』にほとんどとどめていない。/しかしこの「憐み」は桜の白さによって救われ、晶子は花の世界に心ひかれてゆく。逆にいえば白い桜はそれほどに現し身の負を解消してくれるものであった。〉
 「白桜集」(昭和17/1942)は遺歌集だから晶子の自選ではない。寛への挽歌を中心に編まれているが、歌集収録で無い歌も、本来なら論じられるべきだろう。これは誰の遺歌集にも(全収録以外)言えることだが。

「修羅」
 石川淳の昭和33年(1958)の小説について。
〈この小説の桜も長い歴史をもった桜の殺人の一つと見ることができるようだが、しかし桜の下での愉楽を刺しとどめることは、この小説の独自な構図としなければならない。肉体の愉楽が桜の下にあり、それでいて肉体の愉楽は桜から憎悪されてやまないという主張である。〉
 桜と死を結びつける著者の視点。

「花激つ、など」
 五島美代子の桜詠について。
ことしの花いろすこし淡しいく春の匂ひうしろに濃く顕たしめて『花激つ』
〈作者にとって、花は現前のものだけでは存在しない。物が現実を超えることは、禀質(ひんしつ)豊かな詩人にとって当然のことかもしれぬが、このように作者の桜がとくに幻視との重層構造をなすのは、それこそ花狂いとして命を春ごとに花に傾けてきたからであろう。〉
年毎に花の色かく深みゆかばつひにおそろしきまでの春にもあふらむ『丘の上』
 その年、その時、目の前にある花だけを見ているのではないということだろう。

「桜森」
 河野裕子『桜森』中の連作「花」について
〈私は冒頭に鬼を待つ性を問題としたが、桜がさそい出す女の性を、永続する無音の時間の中に見すえることによって、『桜森』は新しく桜の一面を言い当てたといってよいだろう。〉
 著者の見解から、『桜森』は日本文学史の桜史の上に正しく載るもののようだ。桜が誘い出す生と死、また性。著者の視点は性的な部分に多く注がれている。連作最後周辺の呆然としたような部分をどう読むかを聞いてみたかったと思う。

「桜の樹の下で」
 渡辺淳一の小説について。
〈何か、染井吉野には生の有限をつき抜けた何物かがあって、それが人間をひきつけ、切なく狂おしくさせるのであろう。ところが枝垂れ桜には生命を燃えたたせるものがあり、それはしばしば性の構図と重なり合う。死を媒介として蘇生する生は染井吉野にありながら、性として燃える生は枝垂れ桜にある。/人間は染井吉野のような哀切さから逃れられないのであろう。そのために狂い、その果てに枝垂れ桜のような性に出会うことになる。〉
 著者の桜に込めた思いは分かるし、その読み解きを美しいとは思うが、この小説の主人公はアウトだと思う。男性作家の描いた近現代小説の多くが21世紀の視点から見るとアウトだなと思う。例えばこの本に挙げられている川端康成の『山の音』に対しても、著者の読み解きを読んで、こんな小説だったっけ、と驚いた。あまりにも男性のご都合主義というか。

「重重人重小町桜(じゅうにひとえこまちざくら)」
 奈河彰輔脚本の昭和62年(1987)の歌舞伎(復活狂言)について。
〈日本の古典に、こうした自他の区別の無さ、さらには人間と自然との形を超えた生命の交流があることは、一般的である。〉
〈私が今まで一連の論考で使ってきたことばでいえば「もののまぎれ」とか「まがい」(紛)とかいうものに、それは相当するはずだ。錯誤や不分明の中で、もっとも重要な変化が行われると考える点で、ひとしいのではあるまいか。〉
 新古今集のところでも思ったが、はっきりしない、ぼんやりしたもの、そこに美を見るというのが、著者の主張なのだと思う。

「花筧」
 安東次男の連句の読解と、安東自身の句集『花筧』(平成4/1992)について。
〈幻視者は一方でたしかな現実の認識者なのであろう。現視をもって幻視が定まるというべきか。〉
 これはとても響いた言葉。短歌にも他の詩形にも当てはまる話だと思う。

角川書店 1995.4. 定価2300円(本体2233円)

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