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その①『世界で一番幸せな男 101歳、アウシュビッツ生存者が語る美しい人生の見つけ方』を読んで

図書館の新刊コーナーでこの本を見かけたとき、『世界で一番幸せな男』だけのタイトルだったら通り過ぎていたかもしれない。

”世界で一番幸せ”という言葉と”アウシュビッツ生存者”という言葉が並んでいた。

しかも101歳。表紙を見ると面白いことを考えていそうな笑顔のおじいちゃん。若々しくて、とても101歳という感じではない。どこかの大学教授と言われれば、そうだろうなと思えるような風貌。

左腕をスーツの袖から出して頬に当てている写真の意味が最初は分かっていなかった。シワと毛に紛れたそこには、収容所での識別番号が刻まれていた。

どんなに悲惨な歴史でも、むしろ悲惨であるほど、それを学ぶことが大事と言われる。

ところが、恥ずかしながら私は、アウシュビッツも奴隷制も戦争も原爆も、歳を重ねるごとに触れるのを控えるようにしていた。

ドキュメンタリーを観たり、本を読んだりすると、しばらくその世界から抜けられなくなって、日常生活に支障をきたすほど引きずってしまうから。TVでも映画でも漫画でも戦闘シーンは避けるようにしている。

火垂るの墓も何年も観ていない。救いのない世界が実際に存在したんだと思うと、やりきれなくなる。そういうことに向き合えない自分をふがいなく思いながらも、今生きている場所で、自分ができることをやっていくことで、そういった歴史を直視できないことを許してもらおうと思っていた。

とはいえ、自分なりに学び、向き合いたい気持ちもあった。どこかに希望や明るさがないと耐えきれないことを自覚していた私は、「これなら読めそう!」と本を開いた。

プロローグの最初には、新しい友へ。と書いてある。

〜これから私の物語をお話ししたい。あちこちに痛ましいところもあり、深い闇と深い悲しみにおおわれているのだが、最後には幸せな人生だったと思ってもらえるはずだ。幸せは選ぶことができる。選ぶかどうかは自分次第だ。その一例を、これから話そうと思う。〜 引用終わり

この文章があったから、この本を読む決心がついた。

結果的には、精神的にきつかったり、引きずったりはあったけど、事実が事実だけにそれは仕方がないことと思う。当たり前だ。

でも、この本を通して著者のエディが伝えたいのは、人が幸せに生きる方法だということがひしひしと伝わってきたし、私がこの本から受けとるのはその部分にしたいと思う。

これから書くこの文章の中では、具体的な悲惨な描写はしない(どんなにぼかしても悲惨かもしれないけれど)。具体的に書いた方が伝わるのかもしれないが、私のように引きずる方がうっかり読んで影響を受けないように。深く読みたいと思ってくださった方には、エディの想いのこもった原本をおすすめしたい。

読むのに時間がかかるかと思いきや、寝る前に手に取り、読むのを止められなくなって読み終えてしまった。睡眠前に読むのはやめればよかったと思っているし、こんなに駆け足で読む本ではないのかもしれないけれど、映画を一本見るのと同じくらいの時間だった。

本の最初は、愛に溢れた家族に囲まれた幸せな子供時代の話で、読んでいるこちらにまで、そのあたたかさが伝わってくるようだった。

その後、最愛のお母さんが自分のためにひどい目にあい、ご両親がアウシュビッツで亡くなり、妹が目の前で過酷なことを強いられ、自分自身にも過酷なことがこれでもかというほどが起きても、友と助け合い、なんとか命を明日に繋ぐよう前を向いて生きられたのは、幼少期に「愛」というものがエディの中にしっかり注がれ、それがどんなものか身をもって知っていたからのような気がした。

とはいえ、本に出てくるアウシュビッツの卑劣な兵士や、笑いながらユダヤ人を迫害した一般市民の中にも、愛を注がれて育った人はいると思う。

むしろ、普通に愛情深く、いい人だと思っていた人が、当然のように隣人に凄惨な仕打ちをするところに、戦争の狂気があるのだろうとも思う。

また、愛情の薄い家庭に育った人の中にも愛情深い人はいる。

そう考えると、人が人としての心を失わずにいられるかどうかは、なにによって決まるのだろうか。

その②に続く



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