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【掌編小説】素敵な時間を、あなたと。

遠くの方でチュン、と呼ばれた気がした俊介(しゅんすけ)はゆっくりと目を開けた。目に映る景色がいつもと違う……。しばらくして俊介の頭の中に昨夜の記憶が蘇ってきた。記憶をひとしきり反芻させた後、寝ぼけ眼で首だけを左に倒す。数時間前までは確かにそこに暖かさを感じていたのだが今、そこには誰もいない。首を右に倒すとカーテンの隙間から春の暖かい日差しが差し込んでいた。壁にかかった時計に目をやると時刻はもう10時を回っている。俊介は体の全身が訴えかけてくる幸福な気だるさを感じながら体を起こした。

締め切ったドアの向こう側からカタカタと音が聞こえる。新菜(にいな)は既に活動を開始しているようだった。しかし俊介は新菜がいつ起きたのか、全く覚えがなかった。それほどまでに寝込んでしまっていた。しばらく耳をすましていると、細かい粒がプラスチックとぶつかって軽く弾けるような音がした。そしてその粒らしきものがカラカラと音を立ててどこかへ運ばれていく……。今まで聞いたことがない音に誘われて俊介は台所へと続くドアを開けた。

「……おはよー。よく寝れたみたいでよかった」
新菜がドアを開けた俊介にとろんとした笑顔を向ける。まだ目は完全に覚めてはいないようだ。どことなく舌足らずな話し方をするのは朝の新菜にみられる特徴だ。新菜のレアな一面を見ることができるのは朝を一緒に迎えることができる俊介だけの特権であり、独占欲が満たされる。
「おはよーさん。何してんの?」
俊介はそう言いながら新菜の背中越しに台所に目をやった。すると、見たことのない器具が新菜の前にあるのを発見した。
「んー? コーヒー入れようと思って。俊介、寝てるから」

俊介が器具をよく見ると上部の透明な部分からコーヒー豆が顔をのぞかせている。さっき聞こえたカラカラと音を立てていたものの正体はコーヒー豆だったのだ。
「俺が起きてこなくて寂しかった?」
俊介は新菜の左肩に顎を乗せ、からかうように問いかける。すると数秒後、予想に反して新菜が黙って頷いた。
「俊介、紅茶派だけど……コーヒー、楽しみたいなと思って」
新菜はそう言いながら先程の器具の上部にハンドルを取り付けた。そして時計回りにハンドルをガリガリと回し始めた。

はじめはぎこちなく、しかし次第にスムーズに新菜の右手が弧を描く。その度に二人がいる空間には音が、器具には挽かれたばかりの豆が、生み出されていく。
「……やるー?」
一度手を止めて新菜が俊介に問いかけた。どんな感触なのか気になっていたものの言い出せなかった俊介は、新菜からの提案を素直に受け入れてハンドルを握った。恐る恐る回そうとしてみるものの、想像以上に力が要った。俊介は左手で器具をぎゅっと握り、思い切ってハンドルに力を入れてみると段々上手に弧を描けるようになった。

「結構力要るのな。これ」
俊介はゆっくりと豆を挽きながら胸の中にすっぽりとおさまっている新菜に話しかけた。彼女の家で昼前まで幸せに包まれて眠り、目を覚ますとそこには愛おしい彼女がいて、朝から一緒にコーヒー豆を挽いている……。なんて贅沢な休日なのだろう。

「……やる」
あと少しで豆がなくなる、というところで新菜が言った。俊介はハンドルの主導権を新菜に譲り、その上に手を重ねる。そして新菜を包み込むように後ろからくるくると一緒に弧を描いた。

ふっとハンドルが軽くなった。すると新菜が手を止めて、挽きたてのコーヒー豆をドリッパーに移し始めた。その瞬間、辺りにコーヒー豆の芳しい香りが漂った。俊介は目で、耳で、鼻で、全身で、幸せな時間の流れを感じていた。

「なぁ新菜。今日は紅茶じゃなくてコーヒー、飲んでいい? 俺の分も豆、挽いてくれる?」
俊介は何となく、今朝は紅茶じゃなくてコーヒーを飲みたいと思った。今までも何度か新菜の家で朝を迎えたことがあったが、こんなことは初めてだった。

すると新菜はしたり顔を俊介に向けた。
「ふふふー。実は2杯分、挽いたんだよー。コーヒー淹れて俊介に持っていって、起こして一緒に飲もうって思ってた。それってなんだか、贅沢な休日じゃない?」

俊介は思わず新菜を抱きしめた。俊介の胸の中でクスクスと新菜が笑う。
「ねー俊介。コーヒー淹れれないよ?」
新菜は少し困ったような顔をしながら、だけどどこか嬉しそうに俊介を見上げる。俊介は新菜の唇に、愛を込めてキスを落とした。


「美味しー」
「うん。……俺、コーヒー好きになるかも」
カーテンを開けた窓からは柔らかくて暖かい光が差し込んでいる。
昨夜、幸せを感じたベッドの上で今、二人は色違いのマグカップを片手に幸せを感じている。ふとした瞬間に放たれるキスは少し苦くてとっても甘い。

お互いが同じことに”贅沢”を感じられる。
それは心が満たされる素敵な時間の過ごし方なのかもしれない。

いただいたサポートを糧に、更に大きくなれるよう日々精進いたします(*^^*)