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[読切] ヴェルクロ・フライ(完全版)

 俺は浮浪者No.68。この街を監視するのが仕事だ。今日も街で一番高いビルの屋上から下界を見おろしている。

 商売道具の望遠鏡をのぞいていると、妙な動きをしている赤いワンピースの女を見つけた。俺は早速その女にフォーカスして動向の観察を開始した。

 女は何かに怯えている様子で終始キョロキョロしながら、中腰の姿勢で後ろ向きに歩いていた。そして、そのままの格好でデパートの中に入って行ってしまったので、俺は彼女を見失ってしまった。

 その後も俺はデパートの周辺を注意深く監視していたが、その日は赤いワンピースの女を再び見ることはなかった。

 翌朝、街角のテレビ映像で、昨日の女が死んだことを知った。例のデパートの真下の下水道で発見されたらしい。

 俺は彼女を救えなかったことをとても残念に思った。

 ビルの屋上の定位置に陣取ると、俺は望遠鏡を覗き込んだ。眼下の街ではいつもと変わりない日常が繰り広げられている。喧嘩しているカップル、糞をしている犬、走る子供。

 そこへ、緑のワンピースを着た女がやって来た。彼女は、ツーステップで腰を振りながら、ダンスのような動きで進んでいる。体の動きとは裏腹に、昨日の女と同様に彼女も辺りをキョロキョロ見回して、とても怯えているように見えた。

 遠すぎて顔までは確認できないが、緑の女は昨日の女とよく似ているように見えた。
 いや、でもそんな筈はない。昨日の女は死んだんだ。

 緑の女も妙なステップを維持したままデパートへと入っていた。

 俺は一瞬悩んだが、これは緊急事態に相当すると判断し、ヴェルクロ・フライを発動することにした。

 望遠鏡で位置を定めながら、空中に爪を引っ掛けてとっかかりを探す。

 あった!これだ!

 俺はそこを摘むと、一気にベリベリっと空間を引き剥がした。その向こうに、ズラズラと流れる文字列、ソースコードが姿を現した。

 俺はコードの一部を手に取り、改ざんされた跡がないか感触を確かめ始めた。手のひらの上にソースコードを滑らせると、指先に様々な質感が伝わってくる。

 ザラザラ、プニプニ、ゴツゴツ、トゲトゲ、ツルツル、サラサラ、ベトベト、ヌメヌメ、モフモフ、パリパリ…。

 何処にも違和感はないように思えた。俺は根気よくコードを調べた。

 すると、うっかりすると見逃してしまいそうなほど小さな小さな不快点がコードの中にあることを発見した。

 これぞヴェルクロ・フライの真骨頂、触って見つける、接触診断だ。

 コード内の不正を手触りで見つけることができるので、文法を熟知していない俺みたいな奴でも、バグを見つけることができる。

 俺はさっそく発見した不快点をログに記録し、上層部へ報告するためにこの世界からログアウトした。

 ビューンという効果音と共に俺は現実世界に戻ってきた。

 俺が仕事で毎日のようにログインしているのは、インスペクト・ガルシアという政府が秘密裏に構築した仮想現実世界だ。

 この世界全体が更生プログラムになっていて、現在約五万人が収容されている。つまり、インスペクト・ガルシアはいわゆる刑務所なのだ。

 俺は、その中で機械的に拾いきれなかった細かなバグを洗い出す地味な作業を生業としている、通称 “拾い屋” だ。
 “拾い屋” は、人目につかないよう、浮浪者アカウントが割り振られているので、職員の間では忌み嫌われている。

 しかし、誰でもできる仕事ではない。俺はこの仕事に誇りを持っていた。

 さきほど俺がやった、ヴェルクロ・フライも俺の自慢のひとつだ。
 気になる部分をベリベリと剥がして中のコードを閲覧できる、拾い屋アカウントのみに許された特別スキルなのである。

 拾い屋は、地味な仕事に見えて、実は結構楽しいのだ。
 現実世界ではありえない場面に遭遇することも多々あり、退屈はしない。

 それを誰にも話せないのが残念なところなのだが。

・・・

 インスペクト・ガルシアからログアウトした俺は、ヘッドセットを外すと、記録したバグのログをメモリチップに保存し、そいつを専用の密閉パックに入れた。

 カードキーで部屋のドアを開け廊下に出る。

 バグを発見したらすぐに報告をするとこになっている。

 その間の監視はどうするかって?

 そんなのは、この部屋で寝ている俺の同僚たちが代わりにやってるから心配いらない。

 俺は職員専用のログインルームを使っているので、滅多に囚人たちの様子を見ることはないが、階下では今でも数万の犯罪者たちが、自分の本来の身元を忘れて、いつ終わるとも知れない更生プログラムの夢を見ている。

 その光景を想像し、俺は身震いした。俺だっていつ下に行ってもおかしくないんだ。

 高速エレベーターに乗って上層階へ向かう。バグデータの受け取りカウンターは39階にある。

 このビル内で、俺のような下っ端はワイヤレス通信を使わせてもらえないので、データを手で持っていくしかない。
 このメモリチップも外部に持ち出すと中のデータが自動的に破壊される代物だ。
 とにかく、政府のお偉方はここの施設でやってることを外部に知られたくないみたいだ。

 バグデータ受け取り窓口にカードキーをかざし、密閉パックを滑り込ませた。
 これで手続きは終わり。データの分析は、また違うやつの仕事だ。

 俺は職員専用のログインルームに戻り、再びインスペクト・ガルシアにログインした。

 インスペクト・ガルシアでは、効率を図るために、現実世界の1時間が1日と設定されている。
 つまり、1日8時間労働の俺たちは、毎度ログインするたびに、インスペクト・ガルシアで8日間を過ごしているのだ。

 今、上に行って戻って来て数十分。インスペクト・ガルシアでは数時間が経っていた。
 緑のワンピースが入って行ったデパートは特にいつもと変わりない様子だった。

 俺はいつもの定位置に陣取り望遠鏡を覗いた。俺にはこの世界に介入する権限が与えられていない。
 あの女に何かあったとしても、俺はただ見ていることしかできず、上に報告するだけだ。

 そうそう、言い忘れていたが、この世界での「死」は現実世界での命には影響しない。
 更生プログラムが終了する前にこの世界で死んだ場合は、別の時間の別のアカウントとして再ログインさせられるだけだ。

 だから、昨日の死んでしまった赤いワンピースの女も、実際に囚人がログインしているアカウントだったとしたら、今頃は別の時代の別のアカウントとして生きているはずだ。

 ただ、このようにシステムのバグがらみで死を迎えるのは、当人の精神にとってよいとは言えない。そのせいで解脱、つまり更生プログラムの終了を阻まれてしまっていたとしたら気の毒だ。

 あとは、彼女らが、実際の人間がログインしてるアカウントではない可能性もある。
 二人はよく似ていたし、妙な動きをしていたし、そう考えるのもあながち間違ってはいないだろう。

 しかし、コードを確認した感じでは、人間一人まるごとバグというほど大きなバグではなかったように思う。

 そんなことをあれこれ考えていると、いつのまにか俺の隣に見知らぬ女が立っていた。
 おかっぱの黒髪に、ぴたっとしたボディスーツを着ている。このいで立ちは、オブシウスに違いない。
 長年この仕事をしているが、本物を見るのは始めてだ。

 オブシウスというのは、修復チームのエースアカウントの名称だ。もはや都市伝説レベルのデバッカー。
 そんなのがお出ましとは、このバグはそんなやばいものだったのか?

 女は鋭い視線を俺の方に向けると、耳に手を当てて、外部と通話を始めた。ログイン中に外部と連絡を取れる権限を持っているのは修復チームだけだ。やはりこの女はオブシウスだ。

 「第三節、第六区画にログインした。浮浪者No.68と合流。ミッションAを開始する。」

 おそらくこの世界では耳に手を当てたり、声を出したりしなくても通信は可能なのだろうが、必要に応じて現実世界のやり方を模倣する場合があると聞いている。
 これは俺にも聞かせるためにこのスタイルにしているのだ。

 本部への報告を終えると、オブシウスは俺に向き直って意外なことを言ってきた。

 「浮浪者No.68。察しの通り、私は修復チームのオブシウスだ。これから、あなたの発見したバグの調査をする。今回は特別にあなたにもついて来てほしい。85%の確率で、ヴェルクロ・フライが必要になる可能性があるからだ。このミッションに参加すると特別手当が支給される。同行に同意してくれるか?」

 断る理由はなかった。俺は喜んでオブシウスについて行くことにした。

 「よろしい。では、我々はこれから、警察の姿を借りて調査に入る。」

 「このバグ、そんなにやばいんですか?」

 「行ってみないとわからない。いくぞ。」

 彼女がそう言うと、いつの間にか俺たちは刑事らしいスーツ姿に衣装チェンジされていた。
 今まで浮浪者の恰好でコソコソしていたので、堂々とこの街を歩けるのは気分がよかった。

 オブシウスに続いて例のデパートへ入る。入ってすぐに、俺たちはこの案件の異常さを思い知らせれることとなった。

 デパートの中は、もはやデパートではなくなっていた。生き物の体内のような、いくつもの筋が張り巡らされたネバネバの巨大な空間。
 正面に小さなトンネルの入口が見えていた。

 「なんだこれは?こんな大きな改ざんの跡なんかなかったぞ。」

 俺は心底驚いてしまって、こんなアホみたいなことしか言えなかった。

 「あなたの発見したバグはとても特殊なものだった。建物全体が改造されれている可能性はある程度は予想していたが、ここまでとは…。」

 オブシウスも多少なりとも動揺しているようで、俺は少々不安になってきた。

 「まさか、あそこへ入っていくんじゃないでしょうね?」

 俺が、正面の不気味なトンネルを指さし言うと、オブシウスは「入らないでどうするの?」と視線だけで伝え、つかつかとトンネルに向かって歩き始めた。
 彼女の衣装がまたボディスーツに変わっていた。もう、刑事のふりをする必要はないということか。幸いにも俺はスーツのままで、浮浪者には戻っていなかった。

 トンネルの中も、気色悪い体内のような雰囲気が続いていた。しばらく通路が続いて、その先に、また少し広い部屋ができていた。

 その部屋はもう体内のような雰囲気ではなかったが、さらに不気味な部屋だった。
 ピンク色の照明に照らされた窓のない部屋だ。壁や天井は照明のせいで正確な色はわからないが、おそらく真っ白。
 そして何より気味が悪いことに、床に一面、ぺんぺん草が生えていた。

 「No.68!ヴェルクロ・フライを頼む!」

 オブシウスが叫んだので、俺はあわてて、空中にとっかかりを探す。
 ベリベリベリと空間を引き剥がす。ソースコードが現れた。俺がそれを手に取ろうとすると、オブシウスがそれを制した。

 「私がコードを読む。あなたはそこで待機してて。」

 オブシウスはしばらく空中に開かれた画面のソースコードを指でなぞって読んでいた。
 こんなものを見て理解するなんて、修復チームは天才としか言いようがない。

 「これだ…。やはりこれは…。本部!予想どおりこれはカプセラ・バーサ・パストリスだ。ワクチンを!」

 オブシウスがそう言うと、彼女の手元に巨大な注射器が握られていた。
 これはワクチンを可視化したものだ。ふざけているようで大真面目なのが政府らしい。

 オブシウスは注射器をぺんぺん草が密生している床に突き刺した。
 ブチュブチュブチュっといやな音がして、ぺんぺん草が枯れていった。それと同時に床や壁にバリバリバリと模様が出現した。

 「よし、草の生えてないところはもう安全だ。ヴェルクロ・フライを閉じてくれ。」

 俺は言われるがままにヴェルクロ・フライを閉じた。
 オブシウスがずんずんと部屋の中に進んで行ったので俺も後に続く。

 部屋の真ん中に、誰か倒れていた。
 駆け寄って助け起こすと、今朝、妙な動きでこのデパートに姿を消した緑のワンピースの女だった。

 緑のワンピースの女は口から泡を吹き、白目をむいてガクガクと痙攣をしていた。

 「まずい、神経がショック状態になっている。本部!彼女の身元は分かるか?一旦ログアウトさせて精神ケアを受けさせてくれ。」

 オブシウスがそういうと、緑のワンピースの女の姿にノイズが走り、身体全体が半透明になり、点滅したかと思うと、パッと消えてしまった。
 無事ログアウトできたのだろうか。

 あああああああぁぁぁ!!!!ダメだだよぉぉぃいおおお!

 突然、鼓膜が破れるかと思うほどの巨大な声が部屋の中に響いた。たまらずオブシウスと俺は耳をふさいでその場にうずくまった。

 僕のだったのにぃいぃぃい!!!
 ああ、でもいいかぁぁ
 結局その子はあの子じゃなかったんだしぃいい

 俺たちは声の主を探した。こんなバカでかい音を、今まで聞いたことがない。
 仮想現実の中だからと言って、耐えられないほどの圧力だ。

 部屋の中をみまわすと、正面の壁際に、何かいるのがわかった。照明が暗いのでよく見ないが、ずんぐりした姿をしている。
 声が途切れた隙を見て、オブシウスが近づく。

 近くへ行ったオブシウスは、何か嫌なものでも見たかのようにウッと声を出して一歩後ずさった。

 「ヴェルクロ・フライを!」

 俺は彼女の元へ駆け寄って、再び空間を剥がそうとした。が、そこで、その生き物を見てしまった。

 そこにいたのは双頭のヤギだった。
 正確に言うと、双頭になりかけのヤギだ。俺ははこれ以上気味の悪いものを今まで見たことがなかった。そいつはヤギによく似ているがまったく違う生き物だった。ヤギそっくりなのが腹立たしいくらいだ。

 頭にはツノが二本生えている。耳は普通の位置に二つ。その下にはヤギで言うところ額があり、さらにその下には、この生き物の部位でおそらく一番気色悪い「目」があった。

 目は三つあった。まさに顔が二つに分かれる途中のような形状。

 あまりに不気味で一秒間ですら見ていられないのではっきりはわからないが、目は黄色だった。黒目は横に伸びて歪な楕円形をしている。

 目の下にはこれまた気持ち悪い鼻がある。鼻の穴は四つだ。その全てからモサモサと茶色い鼻毛が出ている。

 その鼻毛をさっきからべろべろ嘗めているのがこいつの真ん中の口から出てくる巨大な舌。こいつには目と同じで、口が三つある。口も目と同じくらい不気味だったがまだいくらかましな気がした。

 それぞれの口には人間と同じような唇と歯が生えていた。そして口の周りには、鼻毛と同じような茶色い毛がモサモサと生えている。

 ヤギの身体はぽっこりしたおなかで、短い両手足がついていた。

 足は短いながらに胡坐をかいていて、大量のぺんぺん草の上に座っている。ヤギのお尻が触れているあたりのぺんぺん草は、腐っているのかドロドロした感じになっている。それを見ていると吐き気がしてきた。

 「ヴェルクロ・フライを!早く!」

 俺は我に返り、急いで空間を開いた。オブシウスがコードを確認する。
 ヤギが気持ち悪すぎて見てられないので、俺は床に視線を映した。床には、さっきワクチンをぶち込んだ時にできた模様が描かれいた。
 よく見ると、それはリアルな時計の絵だった。同じ絵が壁にも書かれている。

 噂で聞いたことがあるが、このシステム内の如何なる挙動も制御できるワクチンがあるらしい。これはもしかしたらそれなのかも。

 「こいつは異常すぎる。なんなんだコイツは!?」

 オブシウスはしばらくコードを調べていたが首を振ってヴェルクロ・フライを閉じるように指示してきた。
 俺はヴェルクロ・フライを閉じた。

 「おい、おまえ!お前は何者だ!?」

 意外なことにオブシウスはヤギに直接話しかけ始めた。
 ヤギは、こちらの声が聞こえたのか、ぐるりと首を動かしてオブシウスの方を見た。

 ああ、そのなんと不気味なことか。
 ヤギが口を開くと、信じられないほどの爆音で声が響いた。

 おまえぇぇこそぉぉおおぉ だぁあれだぁぁぁあ

 俺たちはたまらず耳をふさいだ。

 「クソッ。会話にならないな。本部、こいつのボリュームを少し下げれないか?」

 《なんだおまえ!誰と話しているんだ!》

 ヤギの声が普通の大きさになった。

 「おい、ヤギ。お前は何者かと聞いているんだ。ハッカ―なのか?なぜお前にはIPアドレスがない。どこからログインしているんだ?」

 《何の話かさっぱりわからないよ。僕は探しに来ただけだよ。》

 「探しに?何を探している?この草みたいなカプセラ・バーサ・パストリスはお前が作った追跡プログラムなのか?」

 《カプセ…?この子たちはそんな名前じゃないよ。ぺんぺん草だよ。僕にいろいろ教えてくれるんだぁ。
 いい奴だよぉー!それなのに…それなのに…、さっきお前がこぉろーしたぁあぁぁぁ!!》

 ヤギがその気味の悪い目玉をひんむいて怒り始めた。その恐ろしい形相に俺は完全にビビッてしまった。

 「オブシウスさん…こいつやばいですよ。逃げた方がいいんじゃないですか?」

 「大丈夫だ。こいつはワクチンで包囲している。あそこから動けないはずだ。」

 オブシウスはそう言いながら俺を振り返ると、信じられないことにウインクをして見せた。

 「おい、ヤギ、このところ、あちこちでぺんぺん草が増殖している。あれはお前がやっていたんだな?」

 《そうだよ~。探してもらっているんだ~》

 「何を探している?」

 《それはねー、あの子だよ。あの大切な大切な女の子~。でもここに来た子はみんな違ったんだよね。
 ぺんぺん草がちゃんと仕事しないからだおぉぉおぉぉ!!
 くそぉぉおお!》

 ヤギの見た目はもちろん、言っている内容もクレイジーすぎるため、恐怖を通り越してだんだん滑稽に思えてきた。俺は込み上げてくる笑いをこらえるので必死になっていた。

 「もう一度聞くが、ヤギ、お前は何者だ?周りを見てみろ。お前の完全な負けだ。諦めて素性を明かすんだ。IPがないから強制ログアウトさせれらない。このまま隔離処理されるとログアウトできないまま、永久にここに残ることになるぞ。いいのか?」

 《やだやだ~!僕はここにるんだいっ!》

 「お前、何なんだ?人間なのか?」

 《にーんげん??なにそれ??あぁぁははぁぁぁぁ~!》

 ヤギは気色悪い声で笑い始めた。そのおぞましい声は、精神の奥底から嫌な思い出を引きずりだされるような、胸糞の悪い響きだった。
 オブシウスも同様に感じているようだった。怒りに満ちた表情でヤギをにらめつけながら、本部に連絡を入れた。

 本部からの返事は俺には聞こえなかったが、オブシウスはヤギに向かってこう言った。

 「お前の処置についてこれから本部が決定する。それまでこちらの時間で数時間かかるだろう。お前はいま完全に包囲されているからログアウトもできないだろう。せいぜい肝でも冷やして結果を待つんだな。」

 ヤギはそれを聞いて、べぇぇぇと舌を出した。実に胸糞が悪い奴だ。
 オブシウスはチッと舌打ちすると、くるりと向きを変え、スタスタと部屋から歩いて出て行ってしまった。
 俺はあわてて彼女の後を追った。

 俺たちはデパートを出て、俺の定位置であるビルの屋上へと戻って来た。
 オブシウスは胡坐をかいてデパートを見下ろしながら、本部からの連絡を待っているようだった。

 「No.68、あなたはこの仕事について何年になるの?」

 唐突にオブシウスが俺に話しかけてきた。

 「え?俺ですか?5年かな…。」

 「そう。私もね、かつては拾い屋をやってたんだよ。そこで猛勉強して今の地位になった。あなたも素質があるわ。頑張れば浮浪者ともおさらばできるわよ。」

 「それは嬉しいお言葉で…。でもオブシウスさん。俺は案外この仕事が気に入っているんですよ。」

 「そうなの?かわってるわね。」

 俺とオブシウスの会話はここで終わってしまった。
 現実の彼女の姿がどんなものか想像もできにないが、いい女だ。いつか俺もこんな女を抱けるように頑張ってみるか…という気にさせてくれる。

 いやいや、こんなところで煩悩にうつつを抜かしていると更生プログラムの対象者になってしまうぞ。しっかりするんだ俺。

 その後、本部から連絡が来るまではガルシアタイムで数時間を要した。俺は望遠鏡で街を覗く仕事を続け、オブシウスはデパートへ戻って、辺りの閉鎖など警察の仕事をしているようだった。
 もしかしたら、あのヤギの部屋にも一人で行ってるかもしれない。どんな精神力なんだ。底知れない女だ。

 やがてオブシウスは俺の仕事場へ戻って来た。

 「本部の結論がでたわ。あのヤギは刑法168条に基づき、隔離処置を施すことになった。」

 俺は望遠鏡を覗いてデパートを観察した。
 すると、デパートだったビルが異様な形にひしゃげはじめ、そのまま紙が折りたたまれるようにクシャクシャと変形して、どんどん小さくなってしまった。

 「デパートごと隔離したんですか?」

 建物全体を隔離する処置は全体未聞だ。さすがのオブシウスにも修復不可能だったということか。

 隔離処置がされると、その部分は、システム内の何にもない空間に移され職員の端末から直接コードを閲覧したり書き換えたりできるようになる。
 たいがいは外部から侵入してきた遠隔ドローンや、ごくまれに不正ログインしてきたハッカーなどにこの処置がなされる。

 「では、あいつはハッカーだったんですか?」

 「いや、それがわからないんだよ。何しろIPがない。あり得ない話だ。急遽、研究チームが組まれて調査を行っている。」

 オブシウスはデパートのあった場所から目を放すと、俺の方を向いた。

 「今日は付き合ってもらって助かったよ。あのヤギに遭遇してあなたの精神的疲労が超過してしまった。今日はもう上がっていいそうだよ。じゃあね。」

 彼女は手を振ってあっさり行ってしまった。彼女と共に過ごす未来を少しだけ想像していた俺には虚しさが残った。
 この件はもう俺の出る幕はない。オブシウスと再び会う機会なんてもうないかもしれないな。

 俺はがっかりしながらインスペクト・ガルシアからログアウトした。

 目を覚ますと、同僚たちはまだ仕事中。夢の中にいた。
 俺は彼らに心の中でお疲れ様を言い、ログインルームを後にした。

 カードキーをかざし部屋を出ると、廊下に車椅子に座った女の子がちょうどこちらへ向かってきているところだった。
 この施設で時々見かける女の子だ。

 女の子は俺の前までくると、車椅子を止めた。何か用かなと思って俺も足を止めると、彼女がこう言った。

 「思ったより若いのね、No.68。」

 え。

 その女の子がオブシウスだった。この施設でトップクラスの天才だ。
 彼女の年齢や容姿は公開されていないので今まで知らなかったが、生身のオブシウスが俺の目の前にいるのだった。

 「君がオブシウスだったのか!何度か見かけたことがあるよ。」

 「そうね。私目立つからね。」

 そう言って彼女はペロっと舌を出した。最高だ。俺はたちまち彼女の虜になってしまった。

 「あのヤギ、ちょっと異常だったでしょう?だから心配になって様子を見に来たのよ。大丈夫?精神面に異常はない?」

 俺は大丈夫であることを彼女に告げた。

 「そう、よかった。」

 彼女は微笑むと、何か言いたそうにその場に留まっていた。現実の彼女はVRの中の無敵感とは少し印象が違っている。
 俺は彼女が何か言おうとしていると察知し、少し待ってみた。
 すると彼女がこう言った。

 「今日はだいぶ世話になったから、その…あなたが嫌でなければ、食事をおごるわ。どう?」

 俺は喜んで彼女の誘いを受けることにした。

・・・

 ヤギがその後どうなったか。
 オブシウスと時々食事をするようになって、たまに教えてもらえる情報から推測するに、まだ何もわかっていないようだ。

 あのデパートまるごとが、既存のプログラム言語とは全く別次元の言語でできていて、解読が進まないらしい。
 システムが知らない言語だから、俺たちのヴェルクロ・フライにも引っかかりにくかったらしい。

 それから、ヤギのIPが見えない件が一番の謎だとのことだ。IPがないということは、どこからもログインしていないということになるのだが…、インスペクト・ガルシアで動いているのは、囚人アカウントと職員のアカウントのみで、NPC(ノンプレイヤーキャラクター)は存在しない。ましてや、あんな異形のアバターは存在しない。

 まるでSFのような話だが、インスペクト・ガルシアを制御しているAI群にバグが生じたか、もしくは暴走したあのような異物が作られた可能性も視野に入れて解読が進んでいるらしい。

 「もしかしたら、人間には太刀打ちできない代物なのかもね…。研究チームではAIにはAIということで、ヤギを解読するためだけのAIを開発しようという動きもある。」

 俺は話を聞けば聞くほど、ヤギに興味を持つようになった。
 この頃ではすっかり、大好きだった拾い屋の仕事を辞めて、研究チームに入れるように勉強しようかという気になっている。

 それから、オブシウスと一緒に仕事をしたあの短い時間も忘れられない。俺たちはいいコンビになると思うんだ。
 今日も商売道具の望遠鏡を覗きながら、俺はヤギの部屋に入って行ったオブシウスの美しい後姿を思い出すのだった。

(つづくと思うけど、一旦おしまい)

※この物語は、「逆噴射小説大賞2020」に投稿した冒頭800文字に加筆したものです。

おまけ

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