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「女の敵は女」はもうやめよう

今日の新聞に掲載されていた雑誌広告にこんな見出しが載っていた。

「女を捨てられなかった42歳美人教師」

この見出しの元となったのは、「42歳美人教師」と結婚した男が美人教師の連れ子を殺害した事件だ。

私はこの「女を捨てられなかった」という言葉を何度も聞いたことがある。これはすなわち、「母親になったら女を一切捨てて子どもに尽くすべきだ」ということを意味する。いかにも母性信仰が強いこの国らしい発想だ。

しかし、そのような考え方こそが、女性がこの日本で生きづらくしている元凶になっているような気がする。

被害者であるはずの母親により厳しいのは女性

実は、この言葉を口にするのは男性よりも女性が多い。少なくとも私の周囲にいる女性の多くが、殺した男ではなくその男と結婚した母親を強く非難しているという現象まで起きている。

ちなみに、私の周囲で聞かれた女性(特に50代以上)の声はこちら。

「母親なのに女を捨てられないなんて気持ち悪い」
「子どものために男を我慢できないなんて獣みたい」
「42歳にもなって恋愛やセックスもないだろう」
「子どもを手をかけたのは継父だが、男に狂った母親が一番罪が重い」
「生活に困っていないのに再婚したのは子どもより男を選んだから」

……まあ出るわ出るわ。42歳美人教師への罵詈雑言。これが同じ女性の声だと思うと言葉もない。

このような事件が起こった時、激しく被害者の女性を糾弾し、社会的に抹殺しかねない状況に追い込む人の大半は、たいていこの母親と同じ女性なのだ。

まさに女の敵は女である。

「母親は女を捨てろ」という圧力は女性からの方が強い

既に他の人も言っているように、私もこの母親に男を見る目は全くないと思う。それが遠因となって子どもが犠牲になったのは事実だ。そこは母親も認めるしかないだろう。

しかし実際に手を下したのは男であり、母親は被害者だ。子どもを殺された上に、これほどバッシングされれれば立派な二次被害となる。そのような罵詈雑言を並べる人間たちを名誉棄損でまとめて訴えてもいいレベルではないか?

42歳と言えば女盛り。内面と外面の両方で一番脂がのっている。人を見る目がある人間から見れば、大変魅力的な女性に映るはずだ。

ところが、日本では40歳を超えるともはや女であることが許されない。また、年齢を問わず母親になると周囲から「母親なんだから女を捨てろ」というプレッシャーがものすごい。特に女性が放つ圧力たるやすごいものがある。

人に「女を捨てろ」と言う女性は矛盾だらけ

しかし、そんな女性たちに私ははなはだ違和感を覚える。

「私は母親だから女を捨てた」とおしゃれもせず、夫が着古したTシャツやボロ布でも巻いて外出しているのだろうか?

スキンケアやヘアケアもせず、シミだらけの顔やボサボサの頭で外出しているのか?

非常に極端な話だが、本当に女を捨てるということはそういうことではないかと思う。

自分に似合う服を買い、きれいにお化粧をし、美容院や自宅でヘアケアをしている状態で、女を捨てているとは到底言えない。

「みだしなみは必要でしょ!」と言う人もいるかもしれない。しかし、本気で女を捨てる必要があると思うなら相応の覚悟が必要だ。

母親になった瞬間からひんしゅくを買わないギリギリのところまで衣服のレベルを落としてすっぴんになり、「母親だから女捨ててます!」と公言するくらいの気概がほしいところだ。

もし、プライベートな用事やお付き合いでおしゃれやメイクをしているとすれば、その人はもはや自分がさげすむ「女」以外の何物でもない。かの母親を「女を捨てられなかった」と糾弾するのは矛盾以外の何物でもないだろう。

人に「母親は女を捨てるべき」と言うなら、まずそれを自分で実践すべきだろう。それができないなら、部外者が被害者の母親を責める資格などない。

そのような形で女性が女性の足を引っ張っているから、いつまでも女性が息苦しい社会のままなのだ。

日本が世界的に女性が冷遇されている国だと問題視されているのは、そういうところではないだろうか。

そのような風潮がなくなり、女性同士がもっとお互いの生き方を尊重できれば、もっと女性が生きやすい社会になると思うのだが。

母親が母親でありすぎると子どもの自立を妨げる

女性が「女」を捨ててまで子どもに没頭する弊害はもう一つある。子どもの心の成長に深刻な悪影響を及ぼし、子どもが不幸になる可能性だ。

母子密着状態で母親がいつまでも子離れできないと、様々な問題が起こりやすい。その典型として専門家が指摘しているのが「引きこもり中高年の増加」と「8050問題」だ。

私自身も経験したことだが、子どもはある程度正常に育つと思春期あたりから親と必要以上にかかわることを嫌う。

社会人になるころには自分自身のライフスタイルを構築し始め、私たち親とは全く違う価値観をもちながら生きていくようになる。

それを人は「自立」と呼ぶ。

母親が母親でありすぎることは、その自立を妨げる恐れがある。それが続く限り、女性はもちろん男性も幸せになれないような気がする。

子どもは母親が「女」を捨てることを望んではいない

母親が、自分の人生をかなぐり捨てて子どもに尽くすことを、日本の社会では美談のようにほめそやす。

しかし、子どもはそんな母親など望んでいないことがほとんどだ。

母親が自分より男を優先させることはもちろん許しがたいが、女であることまで捨ててほしいとは思わないものだ。

その証拠に、子どもは「きれいなお母さん」が大好き。元の器量はともかく、きれいにおしゃれしたお母さんが参観会に来れば子どもはうれしく誇らしい。

逆に身なり構わず小汚くしていれば「恥ずかしい」と思うもの。自分のためとはいえ、そこまで女を捨ててほしいとは思っていないようだ。

これもうちの子どもに確認したから間違いない。

「女の敵は女」をやめよう

何度も言うようだが、確かに母親は明らかに再婚相手の選定を間違えたと思う。

しかし、それと「女を捨てて子どものためだけに生きる」こととは全く別問題だ。

母親が子どもだけが生きがいにしていれば、母親は子どもが自立した後の人生を見失ってしまう。その結果母親はゾンビのように子どもに張り付き、成人した子どもと共依存状態になりかねない。

それが原因で、共倒れで貧困にまっしぐらとなった人を何人か身近で見ているから他人事とは思えない。

母親がパートナーの選定を間違えたことと、「女」であることとは切り離して考えるべきだろう。私たちが母親を変な色眼鏡で見れば見るほど女性が自分の首を自分で絞める構図になる。それを断ち切るにはまず同性である女性から「母親は女であってはならない」という思い込みを捨てなければならないだろう。

このエントリーを読む人がどれほどいるかわからないが、まず女性が意識を大きく変えなければ。今のように「女が女の敵」であり続ければ、女性は苦しいままで人生を終えてしまう。

私は、そんな人生を送るのは嫌だ。もっと女性同士がお互いを認め合える社会に変えたい。その考えに賛同してくれる人がいれば、一緒にその方法を考えたい。知恵を出し合って、もっと女性が思い切り呼吸ができる社会を子どもの世代に残したいと思っている。

#こんな社会だったらいいな

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