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アニメ療法~心をケアするエンターテインメント ⭐︎⭐︎

アニメ療法~心をケアするエンターテインメント を読みました。おすすめ度は⭐︎⭐︎。
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アニメをセラピーにも使えるのではないか、と提案する一冊です。所感としては、興味深いと言えば深いのだけれど、各々の話題については他の詳しい本を読みたくなる記述に感じたことと、個人的には筆者と意見が合わなそうなので無駄に感想の文字数は増えたな、という印象です。

雑感3つ


日本アニメ大好きなイタリア出身のお兄さんが書いているのだけど、学術的事実を並べ立てたり行動経済学が好きだったり、古代ギリシャを一回は引用しないと気が済まない感じだったりとすごく翻訳書っぽいのに「私は」じゃなくて「著者は」って書いてるあたりなんだかすごく日本っぽい

トラウマ抱えている人は悲劇見て元気が出るの、実験結果があるらしくて笑いました。さすが行動経済学大国アメリカ(アメリカの研究だったか覚えていないけれども)

トラウマ抱えている人は悲劇見て元気が出る、ホメオパシーとも言うらしいが、
客観視による効能かな、と思っていたら、現実生活でのソレは陳腐だが舞台上だと美しい的なこと言っててそっち?とは思いました。
とはいえカタルシスってプラトンの唱えた言葉で、プラトンってイデア大好き理想主義者だから、イデアの模倣としての劇、って思ってた可能性はありそうなんだよな(現実だと陳腐な感情も舞台上だと美しい論には、イデア=理想への崇敬もありそうだよねと言う意味で)とも思うなど。

物語療法について思うところ

私が客観視による効能、と言語化していたところも面白い言語化があったので書いておく。ロールモデル、である。確か昨年読んだ「ORIGINALS」だったと思うが、多数の物語上の英雄をロールモデルにしている人の方が成功するらしい。まあわかる気がする。また、バズりツイートで見た話だが、宇多田ヒカルさんが「伝えたいことがうまく言えない」という悩みに対し、「どれだけ本を読んでるの、どれだけインプットしているの」と尋ねたことも興味深い。ロールモデルがたくさんある、引き出しが広いに越したことはないのだろう。

今でも篝火を囲んで話し合う生活(原始コミュニティ的な)を送っている部族は、昼間は実務的な話や噂話なのに、夜になると神話とかフィクション語り出すそうで、最近見たStand by meでも夜は主人公がゲロゲロな小学生が好きそうな話語ってたなあとか思い出していた。Stand by meよかったです。ぜひ見てください。なんというかそういう学術的な事実を脚本家は知らなかっただろうに、人間の本能なのかねえとしみじみしていました。
その原始コミュニティに対して100万年前も同じだったはずだみたいに言ってて、歌うネアンデルタールを読んだ身としては「いやたぶん言語という概念存在しないし認知的流動性も無さそうなんで神話やフィクションは語れないんじゃねーかな…」と思ったがどうなんでしょうね。

筆者の言うアニメセラピーについて思うところ

日本のアニメは海外のCartoonに比べて主人公像が多様で(老若男女から障害者まで)ジャンルが幅広い、と言うのを挙げていたが、それはどこから来るのだろう?と思った時に、私個人としては「各々の性癖に正直に書いた結果そうなった」説を唱えたい。本書の意図からは大きく逸れるだろうが、作り手はただひたすら自分が「萌える」物を作りたかっただけではないか?そしてそれを、政治的だったり宗教的な意図で歪められることがなかっただけではないか?という気がしてきている。


アニメや漫画の医学への臨床的な運用が少ないと言う話、二つの側面があると思っていて、
・漫画家(芸術家)に清貧であることを求める風潮(別に霞食って生きてるわけじゃないんだからさ…と個人的には思うが、お金の話をすると卑しいみたいになりがち)
・「娯楽」として作った物を娯楽以上の何かとして受け止めるのはナンセンスという感覚(もうちょっと言うと、あなたが感動したんだから良いじゃないか、みたいな感覚。「自分のこういうトラウマに刺さったんだろう」とか分析し始めると白い目で見られる風潮がある。ある種、娯楽以上の機能性を求めないことが、物語の多様さに繋がっているはずだから、難しいところではある。私見だが、「伝えたい」の前に、「ただ自分はこう言うものが作りたかっただけ」という傾向がある気がするのだ、日本のコンテンツ制作者は。そう、「自分を救済するために作っているのであって、誰かを救済しようとするなどおこがましい」的な風潮と言おうか、「救われるなら勝手に救われろ」的なノリは感じる)
後者の方が本命である。

「治癒的な狙いを定めた作品があっても良いんじゃないか」わからんではないが、だったらTRPGで良いのでは?と思ってしまう。
それこそ、各々の経てきた人生に合わせ、物語を自ら作り、「感情移入しながら他者のそれとして追体験する」と言うのは大きい意義がありそうなものだが。もちろん、誰しも物語を作れるわけではない。だからこそルールブックやシナリオブックがあるのであり、補助輪をつけながら物語を作ることで得られるものは大きいのではないかと思う。
また、物を作ることによる癒し効果というものは、図らずも私自身の手で実感することがよくある。作曲が趣味で、自発的依頼きっかけを問わずに色々書いていると、書いているその時は、一つ一つの音、メロディを「これは違う、これも違う……これだ」と選別するのにただひたすら真剣で何かを考えているというわけではないのだが、書き上がった曲を聴くと、ああ、自分はこういう気持ちだったんだな、とよくわかる。書き上がった曲を並べていくと、自分の感情と祈りの変遷が見えてくるようで、興味深いし、何かを作り上げたという達成感もあるが、元は自分の感情だったものがこんなにうつくしい音楽になる、というのは自己肯定感のブーストには一役買っているのは間違いない。

多分この作者さんと意見合わないだけな気がしてきた
精神科的な視点でオススメできる作品と言って宝石の国とコードギアスは普通は勧めないのよ……という気持ちになってくる。来ませんか?ちなみに宝石の国は、仲間の一部を取り込み絆を深めていくフォス、コードギアスは正義のためには手段は関係ないのかみたいな哲学の話としておすすめ、らしい。私としてはコードギアスはルルーシュを「はい、ド屑〜〜〜〜!!ざまあwww」みたいに楽しむ物だと思っているし、とはいえそのひたむきさと頭の良さは愛でているからこそのユーフェミアその他の悲劇にゾクゾクするわけで……いずれにせよまともに見えるスザクも蓋を開ければやべーやつな訳で、「まともなやちいねーなwwwww」的な作品だ、と、思っているのだが……。

キャラの強度について、多分理解が得られていない感じがする
読みながらすごく思っていたのは、「キャラの強度」である。もうちょっと言うと、日本人にとって(主語でかですまない)キャラにはかなり強度がある、わかりやすく言えば、実在する知人友人と同じくらいの存在感の強度があるのである。
推し、という単語から、崇敬や崇拝のようなものを連想しがちだが、聖人を崇めるようなものとは明確に違う。それは、実在する友人を思い浮かべるのとほとんど変わらない、生々しさのようなものである。
具体例を上げるなら、聖⭐︎お兄さんだろうか。キリストであれブッダであれ近所のお兄さんレベルの人格を持った存在として友人レベルの生々しさで想像できてしまうお国柄なのである。
アメコミのヒーロー達は、英雄的がすぎるというか、ヒロイックにすぎる。スーパーマンはワンパターンだとも言っていたが、おそらく、キャラの強度の違いだろうと思うのだ。日本人は、実在する友人の人格と虚構のキャラの人格を同列に記憶できる。何か物を見て、ごく自然に、「あーあの友人だったらこう言いそうだな」、と思うのと全く変わらない感覚として「あのキャラなら苦笑いしながら説教垂れそうだよね」とか思えるのである。その、キャラを強度高く受容できる文化が、翻って、強度の高いキャラを生み出す源泉になっているとも思われる。筆者の作ったノベルゲームによる結果ははかばかしく無かったという。具体的なことは書かれていないのでわからないが、失礼を覚悟で言うとこのキャラ強度が足りなかったのではないかとも思うところである。
日本の同人文化(特に二次創作)を夢の共演、あるいは単なるifだと考えている人は同人界隈に明るくない日本人でも多いのだが、厳密に言えば、違うのだ。解釈違い論争に対して、二次創作ならみんな解釈違いと思うかもしれないし、「公式が言っているだけ」という中々にロックな発言を頭がおかしいのではないかと思われるかもしれないのだが、私にはなんとなくわかる気がする。先に述べた通り、実在する友人の人格を自分の中で思い出すのと同じ生々しさでキャラクターが存在するのだから、このキャラはこういう時、こういう言動をするひとだと「知っている」わけだ。その、濃度の高い幻覚を同人誌として出力しているに過ぎない。それをちゃんと幻覚だと理解した上でゾーニングしているので、余計な手出しはしないで興味がないなら近寄らないでそっとしておいてやってもらえればと思うが、キャラの存在感の強度、というものが一際高い国民性はある程度同意してもらえるのではないか、と思うし、私はその辺りには先進国のくせにいまだ色濃いアミニズム的な文化観があるのではないかと勝手に思っているが、まあ検証したわけでもなし、あくまで仮説である。

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