春夏秋冬 一十二

観測する夢遊性寛容生物が言葉を得た姿。

春夏秋冬 一十二

観測する夢遊性寛容生物が言葉を得た姿。

最近の記事

主に夜にまつわることを思うままに書き連ねました。 2023年8月27日の午前の作品たちです。 1. 夢の中の狂気に追い立てられ、私は目を覚ます。夢の中の狂気に追い立てられ、やがて君も目を覚ますだろう。私たちはなぜ、こうも夜毎、いつ切れるともしれない縄を己の身に括り付けて深い渦の奥に身を投げねばならないのか。あちらでは現実以上に恐ろしく、現実以上にはっきりとした輪郭を持ち、現実以上にどくどくと脈打つ、現実以上に鮮やかな、現実以上の現実が口をあけて私たちを待っている。 私たちは

    • 回り、膝から崩れ落ちる時

      寄せては返す波のように、打ってはぶつかり、白波を立て、紋を広げ、やがてはあるべきところ──それも小さな点でなく広大な──へと帰って行く。 営みの様 て どうしたら伝わるのか、考えて、考え尽くすことを、感情の不足と捉えることはない。 その原動力は何よりも強い 夢 火を囲んで語らう。 影だけが踊る。 捻れては囁く。 静かにしてはいけない、耳をかたむけては □ ただ美しく、美しく。 瞼の裏に映る極彩の幾何学を解いて。 この世に貶めよう。 人の理の中へ。 私はそれをなぞ

      • 心臓

        浴槽に浸かって ぢっと指を合わせる その五つの先端が 脈拍に併せて微細に振動するのを視認する あるいはこの両の手が 私の物だと誰が定めたのだろう 右の腕はミーシャのもので 左の腕はローガンのものかもしれない ただそれだけだ ただそれだけのために 人は他者に触れようとする 触れて 合わせて 押し付けて その体温が溶け合うように 境界を失ってしまうまで 境界を失ってこそ 境界を思い出すために そうだ この実在する僅かな隙間に もうひとつの心臓を 信じることができる

        • 区切り

           その声は、今まで聞いたどの声よりも軽く清々しかった。最初に浮かび上がってきたのは、「嫌だよ」でも「おめでとう」でも「頑張ったね」でもなくて、ただとてつもなく大きい無力感だった。私はそれに、何よりも重い決意を直観してしまったから。目の前の人間が自分ではどう頑張っても届かない所へ行ってしまったような気がして、その感覚が現実になるのは明日かも、明後日かもしれなかった。不思議と怒りは湧いてこなかった。その人間にも、選択にも、そうさせた環境にも。ミルクパズルの最後の一ピースをはめた時

          落し物に関する追記

           先程、以前Twitter上で公開した落し物に関するお話をまとめ直して、noteにアップした。(https://note.com/chitose_hitotose/n/n3d9617937d87)というのも、あの話の続きを書きたくなったからだ。  あれをTwitterに上げてしばらくしてから、ふとあの落し物のことが気になって、私はもう一度ポケットを探ってみた。すると、いたのだ。あの恋の切なさが。色も形もあの時のまま、当たり前のような顔をして手のひらの上でころりと傾いた。その

          落し物に関する追記

          落し物

           去年の六月のこと、私はバイト先の書店にいた。夜の七時半頃であったか、その日はお客さんも少なく、私はレジを離れて本棚の整理をすることになった。私はこの仕事が好きであった。棚の、普通なら見落としてしまうようなところまで確認するため、まだ見ぬ素敵な本に出会えることがあるからだ。  出版社ごとにわけられた文庫の棚をこちらからあちらへ。折り返してはあちらからそちらへ。帯やカバーを整えたり、薄く積もった埃をはたいたり。巻数を揃えて背を並べて。こちらからあちらへ。あちらからそちらへ。

          夜の公園には 子供たちの忘れ物が 息づいている 燃えるような夕日に焼き付けられて 夜に取り残されたいのちが 闇に紛れて遊んでいる 主なき思い出の証左が ほら 耳をすませば シーソーは きぃ  とん くぅ  とん きぃ  とん くぅ  とん 回転遊具は からり からり からからからり からり からり からからからり ぶらんこは きぃゆ きぃゆ きぃゆ きぃゆ タイヤのゴムも ゆをん ゆをん を を を を ゆをん 朝陽が昇れば思い出も薄れて 白んできた空へと帰って

          無題

          私が貴方の存在を証明できないように、貴方は私の不在を証明できない。 世界を歪ませることは酷く簡単で、いつか、命もそうあるのだろう。 詩人が嘘を吐けない理由は何かを求め続けた。 つまり、そんなものはなく、キラキラと輝く鏡面をいつまでも見つめている。 意味のある物は有益であったが、意味のないものは粋であった。 間違いなく、ただの思い違いだろう。これもまた。

           数年前のこの時期である、私がこの家に越して来たのは。築うん十年の古い家で、流しの上の木の戸棚は湿り、淀み、置いたものは腐敗する。扉は重く嘶き、襖はただでさえ狭い部屋を仕切り圧迫感を与える。そういう家だった。  数年経った我が家は未だに古い。夏は暑く冬は寒いし、凡そ快適とは言えない。しかし、あの頃の暗さは不思議と何処にもなかった。物は増えたが寧ろ広々としているし、人が居る分埃も増えるが空気は清々しい。  人が居ない家はすぐ駄目になると聞く。人の居る家は人と共に生き、呼吸を

           海とは、そこまで縁の深い間柄にあるようには思わない。生まれ育ったのは海無し県であったし、実際に浸かったことも二度しかない。  初めて海水というものに触れたのは小学生の時。何年生の頃だったかは忘れてしまったけれど、多分低学年だったと思う。その頃は毎年、海辺に建つ水族館に祖父母と母と弟と私とで行くのが恒例行事になっていて、けれどそれまで一度も浜に足を踏み入れたことはなかった。というのも、母が海を大層怖がるのだ。なんでも水平線が恐ろしくてかなわないらしい。ところがある年、気が向

          初めましてのご挨拶を自分のお帳面に書きなぐることについて

          初めまして。もしくはこんにちは。 春夏秋冬一十二(ひととせちとせ)と申します。 皆様は本日も良い日を過ごしていらっしゃいますか? などという文言を、手に入れたばかりのまっさらなお帳面の1ページ目に書く人間をどう思うだろう。 少なくとも私は、普通に変な人だなぁと思うよ。好むとか好まないとかは置いておいてね。 さて、なぜこのnoteをこんなお話から始めたかと言うと、私はnoteをノートとして、つまりは好きなことを好きなように書くためのお帳面として使いたいと思っているからだ。

          初めましてのご挨拶を自分のお帳面に書きなぐることについて