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オーリガとクルイギン 田嶋結菜

とにかく新作の初期の稽古ほどおもーいものはありません。例えて言うなら大きな石うすをみんなでがんばって動かそうとする感じでしょうか。これがなかなか動かない、エンジンかからない、大のオトナが何人も集まって何時間も角突き合わせて、成果なにもなし、なんて日が続きます。「演劇のつくり方を忘れてしまった」と毎回思います。

『光のない。』という作品をつくったときは、冒頭のシーンをつくるのに一ヶ月かかりました。「わたし」「あなた」「わたしたち」「あなたたち」の四つの言葉だけで短いシーンをつくろうという最初のアイディアに固執した地点。あれだけの膨大な言葉を脇に置いておいて、ただひたすらに「わたし」「あなた」「わたしたち」「あなたたち」……。本番一ヶ月前から稽古場を横浜に移したのですが、そこで合流した舞台監督と技術監督が、稽古を覗きにきて、そっと帰って行ったのを、私もそっと見送りました。スタッフが仕事を始めるために必要なヒントを提示するところまで稽古場は到達していなかったのです。

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『三人姉妹』でもプロレスばかりしてました。それでも稽古がなんとなく進んでいったのは、仮の装置が稽古場にやってきてからだったように思います。この壁をどうやって動かそう、次はどう動く? 壁の動きから考えてつくっていったことをよく覚えています。逆算、逆算……。

本番一週間くらい前になると、さすがに通し稽古をしたいという雰囲気に現場は包まれます。芝居ができなければ仕事の全容が見えないスタッフが手ぐすね引いて待ち構えています。そんなとき、よくあるパターン、「できたとこまで通し」からの「その後即興、持ち台詞消化して」(注. 地点ではそれぞれの俳優に割り振られた台詞をモチゼリフと呼んでいます。ショウカスルというのは、これまでのシーンで使っていなかった残りの持ち台詞を全部言うってことです)。これはなかなかに、俳優に負担のかかることではある、あるけれども、これでなんとなく作品の全容が見えちゃうこと、あります。稽古場の初期からずっと見ている立場から言うと、「作品が自動的にできちゃった」瞬間です。

『三人姉妹』のときもそうでした。確かゲネがこのパターンでした(それってゲネって言うのか、ということはさておき)。長い時間をかけてルールをつくりながら、俳優がひたすら持ち台詞を入れ、原作を読み、それぞれで戦略を立てていた(おそらく)ことが感じられて、そのことに毎回滅茶苦茶感動します。もちろん偶然とか、複数人の集中力の高まりとシンクロが引き起こす摩訶不思議みたいなものもあるように思います。(まあ、この作り方はあまり一般的ではないように思うし、できればちゃんと通し稽古を重ねてゲネプロができるのが一番とは思っているのですが。)翌日みんなで即興を反復しながら台本を書き起こして、ようやく上演台本が終幕までできあがったと記憶しています。

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こんな風に勢いに任せてつくると、意図せずできあがるシーンがあり、そういうシーンはたまらなく魅力的に思えます。『三人姉妹』の終幕の有名な台詞、長女オーリガの「それがわかったら、それがわかったらね!」。原作では三姉妹が寄り添って立ち、オーリガが二人の妹たちに対して語るこの言葉、地点の『三人姉妹』ではオーリガがなぜかクルイギンに向かって語ります(それもかなりねちっこく)。両者の直接のやり取りは、原作では第三幕、「マーシャがいなかったら、わたしゃあんたと結婚したろうってね」とクルイギンがオーリガに問題発言するくらいなのですが、台詞としては語られない二人のそれぞれの境遇や胸の内、クルイギンが果たしてオーリャの言葉を聞いているのかいないのか、見るたびに違うことを考え、ぼーっとしてしまいます。

このように地点の劇は瓢箪から駒、出鱈目な部分も多々あるのですが、ルールでがんじがらめにするのは、ひょっとしてこういう作り手自らが裏切られるようなシーンが見たいからなのかもしれません。

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