「風立ちぬ」を見た

先日の金曜ロードショーを録画しておりました。
「風立ちぬ」をちゃんと見たのは2回目だったと思います。1回目が映画館だったかレンタルだったか金曜ロードショーだったかは記憶にございません。

ただ、明らかに見方が変わっているなぁと思いました。正直、最初見たときは最初から最後まで雲を掴むようで、なんとなくわかったと思ったらわからなくなるの繰り返しでした。今回はそれぞれの場面場面で、ここでこうくるかという感慨を抱きつつ雲模様を眺めていました。
そう、主人公の堀越二郎はまさに風によって形を変える雲のようでした。実際に彼は風に吹かれるシーン多いですしね。

というか、これ極端な話ですけどね。
風立ちぬに“人間”いないんじゃない?
泥臭い人間味みたいなものがなくて、綺麗なものだけが二郎の周りにはいる気がしませんか。
いや、1人だけいるな。妹のかよです。
彼女はむしろ、見ている人の心が二郎から離れないようにするための役割を担っていると思います。
だから、二郎を薄情だと言い、山に帰る菜穂子を思い泣くのです。彼女の感覚は現代に近いのでしょう。作品と我々を繋ぎ止めています。

実際、二郎は薄情です。
たぶん彼が生まれ持った感情は「美しい」だけです。美しいものを美しいと思うために彼は生きています。だから、飛行機に憧れ全てを賭して「美しい」飛行機をつくりました。そして、「美しい」菜穂子を愛しました。
もし、菜穂子が美しくなくなったら二郎はどうしたのでしょう。もちろん見捨てたりはしないでしょうが。それは自分が美しくないはずですから。しかし、菜穂子を愛し続けたかは……わかりませんね。だからこそ、彼女は二郎の元を去ったのでしょう。

その結果、二郎が愛した「美しい」ものたちは彼の目の前からいなくなっていきました。彼がつくった世界一速く美しい飛行機は、彼の元を飛び去りました。最期は特攻に使われた零戦。例え作戦に成功しても、いや、成功したからこそ二郎の元へ戻ることはない宿命でした。果たしてどれほどの効果があるかもわからない作戦に、零戦は墜ちたのです。
菜穂子もそうです。彼女は山の病院へ帰りました。寒い山の外にベットを起き安静にしておく高地治療です。果たしてこれに効果はあったのでしょうか。空気が良いという点で二郎の元にいるよりは良い環境だったかもしれません。しかし、ここでは敢えて意味の無いものとして穿った目線で見てみましょう。
二郎から「美しい」ものを奪ったのは、現代では効果のないとされるものたちでした。見ているこちら側の視点からすると、やるせないというか涙を誘います。
しかし、二郎にとっては。いや、その時代の人には、ただ受け入れるべきものだったのです。起きたことはそれとして受け入れて、それでも生きねばならぬ世界。だからこそ二郎は「美しい」ものに固執したのかもしれません。「美しい」を支えにすればこそ二郎は生きられたのかもしれません。

さて、余談ですが。
初見では二郎の周りの人物として浮かぶのは本郷だったのですが、今回は明らかに黒川夫妻でした。
これは確実に自分も上司を持ったからですね。我が上司も良い上司です。
ジブリ作品を見る視点を通して、時の経過を感じました。まる。

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