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人生振り返れば、音楽がいた

音楽が好き。

ある昼下がり、ふと私の35年間を振り返ると、良いときも悪いときも寄り添ってくれたのは音楽だったな、と思った。
ピアノを弾くこともそうだし、コンサートホールに響き渡る楽器の音もそうだが、音が自分を優しく包んでくれるように感じて好きだ。

実家にある私のピアノ。帰省のたびに弾く

今では音楽フェスや、今年の1月には、ブルーノマーズの東京ドーム公演にも行った。

2024年1月東京ドーム公演

また音楽を通して、私自身が小さい頃から続けている行動が、社会人になって活かされていることに気づいた。


人生は、音楽と共にあり

3歳〜12歳:PDCAを回す、を知る

音楽という世界に初めて飛び込んだこの時期。ジャンルはクラシック。

音楽教室で、先生と1対1で行うピアノのレッスン(以下:個人)と、先生の元で習っている同年代の子たちと一緒に学ぶ、エレクトーンのレッスン(以下:グループ)を併用する、音楽家を輩出する特別なコースに、私は在籍していた。

画像出典:ヤマハ|ELS-02 エレクトーン

小学2年生に上がるタイミングで、大阪に引っ越した。
そこで出会った先生はとても厳しく、私がレッスン中に泣いた日は数知れず(後で、音楽教室界隈では有名な先生だったと知る)。
しかしその先生と、グループで出会った同期との出会いが、私の音楽の世界の楽しさを教えてくれた

当時、平日夕方5時~7時、土日は1日中ピアノの練習を毎週繰り返した。サボるなんてあり得ない。授業が終わった放課後にどれだけ遊んでいても、この2時間は確保した。おかげで私は、ポケットモンスター151匹の初代にあたるが、アニメを見たことなければ、ゲームもしたことがない。さらに言えば、クラシック以外の音楽をまともに聞いたこともなかった(当時流行っていたのは、小室ファミリーと宇多田ヒカル)。

縦長のCDケース、懐かしい
画像出典|鈴木あみ|クラスの女子はASAYANで盛り上がる

同期のなかに「この子たちは、本当に同年代なのだろうか」と感じる子が3人いた。なぜなら演奏に対する技術と表現力、創造力のレベルが非常に高かったからだ。人生で初めて感じたレベルの違い。
どうやら私は見事に10歳の壁に、ぶつかったようだ。

10歳前後になると、しだいに自分の性格や能力などを周りの友だちと客観的に比較して、「自分はそれほどできるわけではない」などと感じ、自信を失ったり劣等感を抱いたりしやすくなります。

「10歳の壁」この時期の子どもの内面に起こる変化や成長とは?【中編】ベネッセ教育情報

ちなみに、彼女たちのレベルがどれほど高かったかというと、個々でいえばコンクールでは必ず入賞、府大会や近畿大会に名を連ねる常連である。
(そのうち2人は、現在ピアニストや作編曲家として活躍中)

3月末にある春のグループ発表会。当時8歳

グループの時間は、楽しくもあり苦であった。みんなでオーケストラの曲を、楽器ごとのパート(フルートやヴァイオリンなど)に分けて、合わせて弾くのは、とても楽しい反面、求められるレベルに追いつけない苦しさもあった。

だから「クラシックは嫌いじゃないけど、ちょっとつらい」。そんな存在だ。

しかし、このままではいけない。そう自分を奮い立たせる。徹底的に下記4つのことを実践した。

  • 同期に指や手首の力の抜き方といった、基礎的な技術面を教えてもらう(もはや技術を真似る、と表現する方が正しいかもしれない)

  • 曲の全体像をつかむため、何回も原曲を聞く

  • 聴きながら譜面上にある音符を追っかけ、気付いたことを書き込む

  • 自宅練習とレッスンを毎回録音して、繰り返し聞く

当時弾いていたオーケストラの譜面。これを楽器ごとに大まかに振り分ける

すると、私にある2つの変化が現れる。
1つめは、多くの転調移調楽器の五線譜が入った、複雑な譜面が読めるようになったこと。2つめは、1曲を最初から最後まで弾けるようになるまで、1週間もかからなくなったこと。
おかげで翌週のグループが楽しくなった。そう感じるまで、私は2年を費やした。

なにより、これを機にクラシックの世界が好きへ変わったことは、人生で大きな転機である。新しいことを知る瞬間に出会える喜び。私のなかに好奇心が生まれた。

12歳、最後の年。
毎年秋に行われるグループのコンクールでは、予選後の府大会において、初めての金賞を受賞。きっとこのときが、人生で初めて努力が報われた瞬間だろう。グループ名が呼ばれ、舞台に上がったとき、遠くの客席に座る母が泣いていた。

府大会で金賞を受賞した2000年

音楽教室の日々を通して学んだことは、PDCAを回した結果は、すぐには出ないということだ。つまり個人差がある。私はピアノが弾けても、表現や技術面においては不得手と思う。そのため同期のレベルについていけるようになるまで、2年を要した。

現在プロになった同期2人は、1人はピアニストとして、ヴァイオリニストなどの演奏家とのアンサンブル伴奏者としての道へ。もう1人はピアニスト兼作編曲家としての道を歩んでいる。昨年22年ぶりに、ある演奏会で2人と再会した。私はあの頃を思い出し、胸が熱くなり、そして懐かしさのあまりに涙した。

どんな曲を弾いたか、私自身が忘れないためにも、ここにメモを残しておく。

年齢ごとに弾いた楽曲
7歳:トンプソン現代ピアノ教本2 「北極圏の旅」/ チャイコフスキー:バレエ組曲「眠れる森の美女」よりワルツ/もう1曲が思い出せない……
8歳:クーラウ:ソナチネ Op.55-1 第1楽章/シベリウス:交響詩フィンランディア/バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番より第1楽章
9歳:湯山昭:土曜日のソナチネ、日曜日のソナチネ/ワーグナー:歌劇「ローエングリン」より第3幕への前奏曲/ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」第4楽章
10歳:ショパン:ワルツ第10番ロ短調Op.69-2/ラヴェル:組曲「鏡」より"道化師の朝の歌"/ドヴォルザーク:序曲『謝肉祭』B169
11歳:ドビュッシー:ベルガマスク組曲よりプレリュード/シャブリエ:気まぐれなブーレー/ショスタコーヴィチ:祝典序曲 イ長調 作品96

個人の発表会とグループの発表会の原曲。ご興味あれば聞いてみてください

12歳〜22歳:情報収集が視野を広げる、を知る

中学生になるまで、まともに邦楽を聞いたことがない。
この年になってからようやく聞き始める。1曲フルで、しかも意識して初めて聞いたのは中島美嘉とコブクロ。後者はちょうどメジャーデビューの頃だ。そして私がフルで曲を聞き、はじめての感想はこうだ。

画像出典:Mika Nakashima official website

「歌詞が全然頭に入ってこない」

なぜ入ってこなかったのか。
それは今まで音だけの世界だったところに、声が入ってきたから。当たり前のことではあるが、私のなかでの衝撃は強かった。ちなみに今でも音ばかりを拾ってしまうため、歌詞は文字で見ないと聞き取れない。

また、さまざまな邦楽アーティストが存在していることが、私の音楽の世界を広げてくた。他によく聞いていたアーティストはT.M.RevolutionやB'z、安室奈美恵だ。だいぶ遅い私の邦楽デビュー。
しかし当時見ていたガンダムや、ドラマの主題歌に起用されていたこともあり、聞きたいアーティストが増えていった。

この頃から、休みの日は聞いた音楽をピアノで再現することが、唯一の楽しみだった。

画像出典:バックストリートボーイズ|ソニーミュージックオフィシャルサイト

そして高校受験の頃に出会ったのが洋楽。
1番聞いたのは、バックストリートボーイズ。次にホイットニーヒューストン。英語のリスニング対策として、毎日聞いていたし、歌っていた。私はそこに、邦楽にはないリズムと、何より「自由」というものを感じた。

「こんな音楽も、存在するのか」

そして、そこからマライアキャリービヨンセといった、世界の歌姫といわれるアーティストたちの楽曲を漁り始める。その時間がとても楽しかった。まだ見ぬ世界に、音楽が連れていってくれるような気がして、ワクワクした。

15歳。高校入学。
お祝いに買ってもらったSONYのMDウォークマン。MDに好きな音楽を入れれるという魅力。しかも大好きな中島美嘉を起用したCM。通学時や、部活の試合前の集中力を高めたいときなど、いつでもどこでも音楽を聞いた。

当時は持っている人が多かった

「好きな音楽を入れたい」
「まだ聞いたことのない音楽に触れたい」

好奇心からくる冒険のようなものだが、高校時代はとにかくレンタルショップに行った。当時流行っていた大塚愛や、ORANGE RANGE。
そしてついに、RADWIMPSが世に出てきた。もはや日本の学生が震えたと言っても過言ではないほど、リスナーに寄り添った等身大の歌詞と自由な曲調が、邦ロックに革命を起こしたように私は感じた。

高校時代は、RADWIMPSをよく聞いた。嬉しいとき、悲しいとき、腹がたったとき、頑張りたいとき。どんなときも寄り添ってくれた、この人たちの音楽が、今でも多くの人に支持されているのを嬉しく思う。

18歳。大学入学。
この頃から出始めたiPod。ドラえもんのポケットのように1つで大容量。

この頃から、さらにさまざまなアーティストをを漁る。

Greeeen/JUJU/チャットモンチー/中島愛/May’n/加藤ミリヤ/Maroon5/テイラー・スウィフト/コールドプレイ/レディー・ガガ/少女時代/KARA /初音ミクなど

次々に出てくる新しいアーティストと楽曲を探し、聞くたびに、私の情報がアップデートされていく。「この曲を聞いてる人は、どういう人たちで、どう聞こえているのだろうか」「どう感じるのだろうか」といった、マーケティングのようなことを考え始めたのも、この頃だった。

このように、情報収集は知らないを知っていくツールであり、自分の視野を広げてくれることを知った。


23歳〜現在:聴きたいアーティストは積極的に会いに行くのが良い、を知る

働き始めて、自分でお金を稼ぐようになってから、聴きたい音楽やアーティストがいれば、なるべく直接聴きに行くようにした。「あのとき、行っておけばよかった」と後悔しないために。

フェスやバンドのライブを聴きに行くようになった。フェスではインディーズバンドも新たに知ることができるし、そこから「初めまして」の音楽に触れることもできる。とくに野外では、音楽×開放感という体験が醍醐味だと思う。

泉大津で開催されたTalking Rock!Fes.2016|初めてマイヘアとビーバーを生で見る
2018年4月SUPER BEAVER武道館公演

クラシックももちろん聴きに今でも行っている。
映画音楽であったり、ソロリサイタルだったり。クラシックの世界に踏み出せない方は、まず映画音楽のコンサートに行くことをおすすめする。知らない曲ということはほとんどないし、ジブリやディズニーといった企画のコンサートもある。耳馴染みの音楽なので寝ることもない。

映画を見ながら、劇中音楽の生演奏を聴くコンサート
ジブリコンサート。加藤登紀子さんの『さくらんぼの実る頃』に感動して泣いた

最近、改めて「聞きに行ってよかった」と思うことがあった。それは、フジコ・ヘミングさんのピアノコンサートだ。

今から3年前。
憧れ続けた彼女の音楽に、「1度でいいから直接触れたい」そう思い、チケットを購入。購入できたときの嬉しさは、言葉にできないほどだった。それほど尊敬してやまなかったから。

最初で最後のフジコ・ヘミングさんのコンサートに行けたことは宝だと思う

席につき、ライトが消灯し、フジコ・ヘミングさんが下手から現れた途端、ホールの空気が変わったのがわかる。やわらかい空気が冷たく張り詰めたような、そんな感じ。しかし、その張り詰めた空間は、1音目でやわらかい空間へと戻り、そしてたんぽぽの綿毛のように音が舞った。

彼女の代名詞である、リストの『ラ・カンパネラ』を聞いたとき、自然と涙が出た。この曲は多くのピアニストが弾いているし、私もいろんな方の演奏を聞いてきたが、全く違う曲のように感じた。音の響きは軽いが、1音1音が彼女の波乱万丈の人生のように重い。唯一無二だった。

先日彼女はこの世を去った。だからこそ、聞きたいと思ったときに聞きに行けてよかった。

人はいつか死ぬ。だから「いつか行く」では遅いこともある。自分の気持ちに正直になり、行動を起こすことは、とても大事である


最後に

こうして、音楽が私の人生を豊かにしてくれた。小さい頃に音楽に出会わなければ、PDCAを回したり、情報収集が視野を広げたり、聞きたいアーティストには積極的に会いに行ったりすることをしていないと思うし、そもそも音楽の世界を知らなかったと思う。

またどんなときも、音楽が私のそばにあったことは、心の支えでもある。35年の人生を振り返れば、音楽がいた。人生を変えてくれた存在。
私はこれからも、音楽と一緒に生きていきたい。そう思っている。


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