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曾祖母の高等女学校生活

曾祖母は、現在は三重県桑名市になった多度で明治20年に生まれ、高等女学校で教育を受けたといいます。そもそも明治期の女子学生は、どうやって学校に通っていたのでしょうか?そして、どんな生活をしていたのでしょうか?

女学生は自転車で学校へ通うイメージ

女学生の通学といえば、私は、「自転車で袴をはいて通う」イメージをもっていました。
まさに「はいからさんが通る」 のイメージです。
だから、そう曾祖母も、自転車で高等女学校へ通うか、または電車通学するか、というイメージで考えていました。

しかし、よく考えればわかることですが、曾祖母が女学生になる年齢は明治30年代。
このころ、三重県の多度あたりから電車通学などできなかったようなのです。
Wikipediaの情報ですが、現在、三重県多度から桑名方面へ向かう近鉄養老線は明治44年に走りはじめています。

まさか自転車で何十キロもこいだなんてことはないでしょうし!女学生さんの自転車通学スタイルも東京の女学校がたくさんある地域では可能だったかもしれませんが、三重県の田舎ではあり得なかったのではないでしょうか?

では、当時の女学生さんはどうしていたのでしょう??

学校には寄宿舎があった

明治の高等女学校に学んだ女性は、どんな生活をしていたのでしょうか?

「高等女学校編成及び設備規則」(明治32年)の第9条には「寄宿舎ニハ」から始まる条文があり、寄宿舎の広さ等が規定されています。高等女学校に集まる女子学生は、寄宿舎に入る、または近くに下宿するのが一般的だったのではないでしょうか。

寄宿舎の生活については、女子師範学校についての以下の本に述べられています。(時代は明治30年代のものではありませんが・・)
規則正しい厳しい生活であったようです。

下宿する女学生も多かった

上記の田山花袋の「布団」は、明治40年に書かれていますが、主人公の作家に弟子入りしてくる女学生は、神戸から両親に連れられて東京へ挨拶にきて、最初は主人公の家に下宿します。
女学校で学ぶ女学生は、地方からくる場合は、下宿することも多かったようです。
たとえば、樋口一葉の想い人であり、小説の師でもあった半井桃水の家に高等府高等女学校の女学生が寄宿しており、明治24年にその女学生が半井桃水の子供を産んだ、ということもあったようです。(平岩典子「『女学生神話』の誕生を巡って」 三重大学人文論叢台8号 2001 P45)
女学生が下宿や知人宅で住むことは一般的であったようで、親元から離れて暮らす様子は、好奇の目で見られたり、非難されたりすることも多かったそうです。

曾祖母の出身学校は謎

曾祖母がどの高等女学校で学んだのかは謎のままです。
通える範囲で考えて、明治32年開校の四日市高等女学校かと思っていました。

でも、寄宿舎や下宿ならもっと可能性はあります。
明治29年開校の愛知県名古屋高等女学校で学んだ可能性もあります。

https://black.ap.teacup.com/syumoku/51.html 名古屋高等女学校

この謎については、今後の課題とします!

曾祖母の父親は医者だった

曾祖母は明治30年当時、女子の数パーセントしか通えなかった高等女学校で学び、その後、小学校教師となって曽祖父と出会いました。

曾祖母の父親は医者だったそうで、そのような知識層の父親を持ったからこそ、高い教育を受けることができたのは間違いないと思われます。

明治30年代、女性の正規教員は少なく、女子の師範学校を出たという言い伝えもないので、曾祖母は正規の教員ではなかったのでは?と考えています。

次回は小学校の校長を務めたという曽祖父について調べてみたいと思います。





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