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抗いたいわけじゃない、でもちょっと不安はあるの。

彼氏と婚約した。

両家の顔合わせも終わり、さて入籍をしようということになったとき、私は一握の不安を握りしめたまま幸福の中に立っている気分だった。

彼と結婚をしたいという思いは変わらない。親族からは祝福され、社会的に一緒にいることを認められる関係は「結婚」という制度を使えばいとも簡単に実現できる。さらに、結婚をすることで受けられる社会的なサービスや補助も増える。ならば、これを使わない手はない。

しかし、私の握りしめいている不安は2人の未来とは別のいたって個人的なものだった。

それは苗字を変えるということ。

私は自分の名前が変わるということで、自分が自分でなくなるような気がしてならなかった。生まれてからこれまで、ずっと共に生きてきた名前を取り上げられることはとても残酷なことのように感じた。


彼に「私は苗字を変えたくない」と相談した。そして、私が苗字を変更することによって発生するデメリットを長々と説明した。例えば、これまでの業績と一貫性がなくなるとか、私が一人っ子であること等だ。

言い出してしまえばきりがない。でも、結局のところは「だって名前を変えたくないんだもん。」というロジカル思考とは程遠い感情が勝っていた。


彼は私の考えに理解を示してくれた。その上で、彼も名前を変えたくないと言った。

とはいえ、今の日本では夫婦別姓では公的サービスを受けることが出来ないし、戸籍上は独身になってしまう。より良く、現実を夫婦で生き抜くためにはどちらかの苗字を選ぶのがベターというのが結論だった。

とりあえず、フェアに苗字を決める方法を考えようと思っていた。フェアに決められるのであればどんな結果でも悔いはないと自分に言い聞かせていた。



ところが、親族の声は怪訝なものだった。

「婿養子にいかないのなら、夫の姓を名乗るべき」

私たちは、婿養子は考えていなかったし、嫁入りとは名ばかりで結納もしていない。「だったら、自分たちで苗字を決めても良いんじゃないの?」と反抗することは容易だが、価値観の否定によって親族との間に溝を作りたいとも思わなかった。

「夫の姓を名乗るべき」という理由として挙げられたのは、「昔からの風習だから」「伝統だから」ということだった。

正直、「そんなの、論理的じゃない!」と思った。でも、そんな考えを持つ親族に「それの考えは時代遅れなんですよ。フェアじゃないんですよ。」なんて説得をしたとて、お互いに価値観否定合戦になってしまうような気がした。


風習」とは何なのか。


私はこれまでケニアやインドの農村で調査をしてきたけれど、私の常識から考えれば男尊女卑のように感じられてかわいそうに思ってしまう風習を多々見てきた。例えば、私が滞在していたケニア中央部の地域では水汲みは女性の仕事と相場が決まっていた。小さい女の子でも女であれば子守りをするのは彼女の仕事であり自分の時間なんて与えられていなかった。インドでは大学の研究室に滞在している博士の学生らがお見合い結婚をしていた。自由恋愛よりもお見合いの方が安心するとさえ言っている女の子さえいた。

外部者の私から見れば考えれば制限があって哀れに思う風習も、その実は内部の人は「そういうもの」として受け入れて調和が保たれていることもあるようだった。

そうは言っても、グローバリゼーションの波の力によって自分たちの境遇を客観視して異を感じる人は、どこの世界でも少しはいる。

けれども、異を唱えた結果、これまでの価値観を否定されてしまった人たちが心穏やかでいられるかはまた別問題だ。

ケニアの田舎に暮らす女の子に「水汲みをさせられているあなたは可哀そうですよ。やめなさい。」と言ったり、インドのお見合い志望の学生に「自由に恋愛をしなさい。もっと自由にデートに行くべきです。」と言うことは善なのか?日本の地方在住の年配者に「嫁は旦那の姓にすべきと考えるのはおかしいですよ。」と言うのは善なのか?

私は、これらの発言に関して、相手の社会の現状や価値観を考慮していない発言になっていいるように感じてならない。

古くからの風習の中には、客観的に論理的・科学的に考えたら異論を唱えたくなるものが存在する。しかし、「風習」は渦中の人々にとっては先人が紡いできた社会の潤滑油だ。頭で考えるのではなく、自然と吹いてくる風のように受け入れることで調和がとれるものるのではないか。


ここまで考えて私は、私の周りに残存する「風習」を受け入れるのも悪くないと思えてきた。それは、風習を受け入れることによって、先人の紡いできた歩みとの調和が計れるような気がするからだ。両親に育てられ自立し、個人として凛と生きてきた身軽さを、先人たちとの調和を得て守るべき・守られるものがいる強さに変えていくと思えれば、なんて素敵なことだろう。


親族の声が無ければ、私たちはきっと過去の風習を考えることもなくジェンダーフリーな姓の選択をしたのだろう。そして、きっと今後の日本ではそんな選択が増えていくのではないかと思う。グローバルスタンダードで考えれば、女が男の姓に合わせるのは女にとって可哀そうなことなのかもしれない。風習に拘る人は、井の中の蛙に似ている。大海を知らない。大海があることを知っていてもそこに飛び込むことをしない。でも、それは哀れなことなのか?

井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る。

世界に大海を知る蛙が溢れる昨今、私は空の深さを考える蛙になってもいいだろう。


きっと、近い将来、私の苗字は変わる。そして、その名前にもやがて慣れていくだろう。これまでも、多くの日本人女性がそうしてきたように。


でも、やっぱり今の私は自分の名前が変わるのは怖いのだ。

私にとっては元号が変わることなんかより一大事なのに、私はこれからは一人じゃないのに、この不安はどこまでも孤独だ。

嫁ぐ娘、風習の是非を知らず、されど孤独の深さを知る。



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