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わたしがキャリアウーマンにならなくても、世界は回る。

わたしの感じる「つらい」と、ひとが感じている「つらい」は同じではないのかもしれない。

わたしは仕事が続かない。

新卒の会社は心身を壊して1年で辞めた。そのあとの仕事も、長くて2年半。短いものは数か月でギブアップした。一方で夫は、前の会社に4年勤め、現在の職場では勤続5年目に入った。わたしが生まれてこのかた1度も経験したことがない、勤続年数。

でも夫は、わたしのように長い文章を日常的に書くことは無い。「今日は1000字の案件を1時間くらいで書いたよ」と報告すると、「俺にはぜったいにできへん」と言う。

そしてふと気づく。

わたしが感じる「つらい」と、ひとが感じる「つらい」は同じではないのではないかと。

とにかく組織で働くことが苦手だ。どれだけ恵まれた職場でも、だんだんと苦しくなってきて結局辞めてしまう。そんな自分をずっと責めてきた。だって、周りの人たちはみんな同じ職場にずっと務めている。わたしだけだ、こんなに転職ばっかりしているのは。

でも、きづいた。もしかして、他の人はわたしが感じているのと、同じだけの息苦しさをもしかしたら感じていないだけでは・・?

どこかで、自分が感じる苦しさや辛さは周りのひとも「同じだけ」感じていると思っていた。だから、「みんなが我慢しているんだから、わたしも我慢しなくては」とずっと思ってきた。

しかし、そもそもわたしと他の人は違う人間だ。感じ方が同じなわけがないのだ。そんな当たり前のことに、33歳になってから気づいた。

すらすらと文章が書けるわたしと、書けない夫。

長年同じ職場に通える夫と、通えないわたし。

どっちが良い悪いじゃなくて、そういうもんなのか。人によって、「これはそこそこいけるけど、これは無理」「まあ、つらいけど絶望するほどではない」その基準は当たり前に違っている。ああ、なんでそんな単純なことに気づいていなかったんだろう。

文章を書くことが好きではない夫は、それを仕事にしていないし、必要とされることに手を出さない。それを他人からとやかく言われることなんて、もちろんない。

一方でわたしは、20代は職を転々とし、30代に入ったところで「もう仕事を辞める」と決めて退職。そのあとすぐ妊娠、出産。そしていま、こうして自宅で細々と文章を書く生活をしている。望んでいた生活のはずなのに、いつも罪悪感を感じていた。

周りのひとたちみたいに、働けない。

苦しくて、もう外で働きたくない。

みんなそれでも我慢しているのに、どうしてわたしは耐えられないんだろう。

そんな風にずっと思っていた。でも、それってつまり、わたしの夫が「なんで俺はあいつみたいに文章を書くのが好きになられへんのやろう。なんで長文を書かれへんのやろう」と悩むことと一緒だ。

その悩みって、いらないね。

だって、無理なんだもんね。

好きじゃないから、だもんね。

めっちゃ単純なことだった。

大多数のひとができているからといって、わたしにそれができるわけではないし、みんなができることができないからといって、責め必要もない。

とはいえ、長年これがネックで、責め続けていたもので。なかなか強固な岩みないなのが、自分のなかにいる。でも、夫が文章を書く必要がないように、わたしにはバリバリのキャリアウーマンになる必要なんてないんだろう。

きっと、誰もそんなこと求めていない。

押し付けてもいない。

ただ自分で、そうあるべきと思い込んでいただけだ。


家で仕事がしたいということ。

外で働くのがいやなこと。

それを、もう認めようと思う。もうすぐ34歳の夏。






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