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*「しょうがない」の話


しょうがない。

今、いろんな人が、しょうがないと思わざるを得ない状況にあるのかもしれない。

しょうがないって、自分にはどうしようもなくて、時の流れに任せるような印象なんだけど、それを受け入れるのはすごく辛い。

たった一言の「しょうがない」や「仕方がない」で片付けられるのは悔しい。

だから、「しょうがない」で終わらせたくない。どうにかできないか突き詰めたくなる。

だけど、どんなに試行錯誤しても、人生においてそれを避けられないのもまた事実で、そんなときに自分はどうするか?

それが大事なんだろうなと思う。

そんなことはわかってるんだけど、それがすぐにできたら苦労しないよね。

それでも頑張るしかない。

それが「しょうがない」ということなんだろうな。

「しょうがない」を簡単に受け入れたくないけど、試行錯誤したのちにそれでもやっぱり受け入れるしかなくて、「しょうがない」と改めて向き合ったときに、少し強くなれる気がする。

これは、2020年5月10日に綴った自分のメモです。

本当は、noteを始めてすぐに書こうと思っていたこと。けれどそのときは思うように書けなくて諦めて、それでも自分の気持ちを残しておこうと記録してました。

いつか改めて記事にしようと思っていたけれど、なんとなく、このまま放置してしまいそうな気がしたから、いま、書きます。


「しょうがない」をわたしが最初に意識したのはある出来事がきっかけなのだけれど、それから月日が流れたある日に、ほぼ日の今日のダーリンで、糸井重里さんが「しょうがない」について書いていることがありました。

糸井さんも似たような思いを抱いていたのです。

小さいころによく聞いた大人たちの「しょうがない」に対して「そうかなぁ」と感じていたこと、やがて「しょうがない」ままでいいのか!?と問題意識を持ち始めたこと、そして、「しょうがない」ことがずいぶんたくさんあることにだんだんと気付いてしまったこと、そんなことが書かれていました。

それから、考えさせられたことも。本当は全文紹介したいくらいだけど著作権の関係もあるから一部のみ。

「しょうがない」のままにしておかないためには、ほんとうに、なんとかすることが大事になる。

また別のある日には、

「しょうがない」ことは現実にあるのに、「しょうがない」と言えないということで、どうにもならないことを、まるで、どうにかなるように思いこんでしまうのである。逆に、それが「どうにもならない」を生み出してしまう。

「しょうがない」を認めないことで考えが歪むということに、はっとさせられました。

「しょうがない」としたうえで「ほんとうになんとかすること」、それは「しょうがないことなんかない」と叫ぶよりもずっと難しいんだなと感じました。


「しょうがない」とすること。それは「しょうがない」を経験して初めてやっとわかることな気がします。わたしはそうでした。

誰かの放つたった一言の「しょうがない」ではなく、目の前の事実と向き合い必死になって自分で考え抜いた「しょうがない」であるならば、それをきっかけになにか成長できるんじゃないかな。

その「しょうがない」で失くすことも多くあるかもしれないけれど、その「しょうがない」から生まれることだってきっとある。

今はそんな風に思えます。
…というよりかは、そう言い聞かせてるかな。

少しは大人になれてるのかな。


糸井さんのことばから改めて「しょうがない」について考えて、最初に載せたメモを綴りました。

これから先、どれだけの「しょうがない」に出くわすのだろうか。わたしはちゃんとそれと向き合えるだろうか。

「しょうがない」を、ほんとうに、なんとかする。

何があっても、この意識を忘れないようにしよう。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


最後まで読んでいただきありがとうございます。少しでも「スキ」と思っていただければ嬉しい限りです。