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「持続可能」は絵空事か-私は信じる

院生だった頃、どういう話の流れだったのかは忘れたけど、講義中に教授が「まだ持続可能なんて言ってるのかよ」と言った。たしか、持続可能は先進国の方便だ、といった意味で、主に環境問題について言ったはずだった。

noteでは、持続可能・SDGsをアピールする記事を幾度も目にした。持続可能界隈の方々もがんばっておられる。

じゃあ、私は・・・というと、持続可能社会に生きる心地がしないまま大人になった気がする。とすると持続可能社会に生きてきたということか。抽象的な表現になるが、物を使い捨てにし、人を使い捨てにし、他人の死体の山の上に築かれた世界を歩いてきた感覚がある。

そんな自分に、「持続可能な○○」を推進することができるだろうか。他人に今は持続可能社会を目指すんだと言えるだろうか。

しかし、私ができないと、おそらく他人に再び物・人を使い捨てにし、屍をまたいで歩かせることになる。誰かの犠牲の上に成り立つ社会を作るために私は生きているのではない。

浮ついた文章になった気がする。結局持続可能の定義をまだ私自身の中ではっきりさせることができていないからだ。

ESD・SDGs、これらは決して絵空事ではない。私はそう信じる。

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