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私の沈金にかける情熱と夢

沈金に対する想いを知って頂こうと、友人にインタビューをお願いしました。作品を通じて沈金に興味を持って下さった方へ、私の沈金にかける情熱や夢を知って頂ければ幸いです。

つげ櫛職人さんの一言からはじまった

─ そもそも、どうして沈金師になろうと?

実はもともと「沈金」を目指していたわけじゃないんです。
ただ、伝統工芸に興味がありました。

初めに関心を持ったのは、沈金ではなく「つげ櫛(ぐし)」。

日本髪用の髪結い道具で、相撲や歌舞伎などの世界にもなくてはならない存在です。小学校低学年の頃に、テレビに出演していたつげ櫛職人さんが「後継者がいない」と嘆いていたのが印象に残っていて、「この人が引退されたら、日本の伝統工芸の1つが途絶えてしまうかもしれない」ということに、子供ながらに危機感を抱きました。

当時から、母のつげ櫛を借りて毎日髪をといていたので、身近な物がなくなってしまうということへの淋しさを、より強く感じたのかもしれません。幸い、つげ櫛職人さんは他にもいらして、今も途絶えることなく伝統技術が受け継がれているのですが、後継者問題は他の伝統工芸の世界でも共通の課題であることに変わりはありません。

「私も将来は何かしらの伝統工芸に携わりたい」と考えるきっかけは、あのときのつげ櫛職人さんの言葉ですね。伝統工芸に興味を持つきっかけになったつげ櫛は、大人になった今でも大切に使っているんですよ。

私が沈金師になるまでの経緯に話を戻しましょう。

もともと絵を描くのは好きでしたが、英語や数学のような勉強はちょっと…苦手だったもので、高校2年生の冬に美術系の予備校に通い始めました。美大を目指す人は、高校1年から予備校に通い始めるのが一般的なので、高2の冬からのチャレンジでは、さすがに現役合格は難しかった。。。高校卒業後2年の浪人生活を送り、3年目の受験で石川県立輪島漆芸技術研修所への入学が決まりました。

石川県に嫁いだ姉から薦めてもらっていたということもありましたが、石川には「輪島塗」「九谷焼」「加賀友禅」など、国指定の伝統工芸がたくさんあることも、私がこの研修所への入学を決意した大きな理由です。

輪島漆芸技術研修所は、人間国宝の技術伝承者を養成することを目的にした機関なので、私が幼い頃から抱いていた後継者不足への問題意識をクリアするためにも、最適な学び舎だったと思っています。

1年目は素地、きゅう漆、蒔絵、沈金という、漆に関する基本技法を学びました。この時点では4つの選択肢があったわけですが、2年目からの選考を「沈金」に定めました。ここで、ようやく「沈金師」を目指す決意をしたわけですね。

伝統技法としては、どれも素晴らしいものでしたが、私には沈金が一番合っていたんです。

漆を扱うという意味では共通しているので、違いが分かりにくいかもしれませんが、沈金以外は制作過程での進度が目に見えにくく、せっかちな性格の私には合わなかった。その点、沈金は彫ったら彫った分だけ成果が目に見えてわかるので、私にぴったりでした。

「ワシにもできん!」…沈金の世界の常識を覆す挑戦は続く

─ 沈金師の道を選んだ後も、挑戦が続いたそうですが?

「伝統工芸を継承したい」という想いは持っていましたが、同時に次の世代の方へバトンを繋ぐためには、時代に合わせた柔軟性も必要だとも考えていたので、他の方があまり取り組まない技法にも積極的に挑戦してきました。

例えば、人物をモチーフにした作品の場合、色が反転した「ネガ」の状態で彫るのが沈金の世界では一般的です。

でも、私はどうしても「ポジ」の状態で彫りたかった。それは、その作品に「生きて欲しい」という願いを込めたかったから。

ポジで彫りたいという思いを伝えると、担任をして頂いていた前史雄先生が背中を押してくれました。上の作品は当時制作した「一葉女子の墓(鏑木清方 作)一部模写」です。

私の代表作でもあるキース・リチャーズをモチーフにした「A MAN」も、このときの挑戦で身に付けた技術が土台となって生まれたんですよ。

卒業制作まで、私の挑戦は続きました。百人一首に選ばれている和歌を、万葉仮名を用いて制作したかったのです。

線の抑揚が大きく、アルファベットでいう筆記体のように文字と文字の間が繋がっている万葉仮名は、沈金で表現することが非常に難しいのです。漆器をノミで彫る、金粉で色付けをするのが沈金ですが、この作品を完成させるまでに私が握り続けていたのは、筆ペン。

卒業制作の指導をして頂いた先生から「手が覚えるまで彫るな」と言われ、ひたすら筆ペンで万葉仮名を綴る毎日でした。ようやく彫る工程に入れたのは、提出期限の3日前。どうにか完成した作品を先生に見て頂くと、先生の口から思いもよらない言葉が。

「よく彫ったな!ワシにもできん!」

提出するまで考えたこともなかったんですが、万葉仮名を手がけた沈金師は、先生も含めいらっしゃらなかったそうです。

※百人一首…7世紀から12世紀に詠まれた100の和歌を集めたもの。和歌は日本固有の形式で作られた詩。
※万葉仮名…ひらがな・カタカナが生まれるより前に使用されていた、漢字だけで日本語を表記するための文字。

(紫式部 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな)

「下手の横好き」で、卒業後もまだまだ私の挑戦は続きます。

都内近郊の有名百貨店にある和食器売り場で実演販売をしていた時期があるのですが、このときの経験を活かして「旅する沈金師」と銘打ったイベントを開始。レンタルスペースや飲食店の一部をお借りして、沈金の実演をさせて頂く活動を行ないました。

また、レーザーカッターを使いアクリル板を彫り沈金を施すという試みも実現。異業種の方たちの力をお借りすることで、ますます私の挑戦の世界が広がっていき、ご協力頂いている皆さんに感謝しています。

「死」と向き合う毎日だからこそ、作品づくりは命がけ

─ 沈金を広めたいという強い想いの根底にあるのは何なのでしょう?

「生きる」ことへの、私なりの表現かもしれません。

親しい友人たちには以前から話しているのですが、私は精神疾患を抱えています。いわゆるウツ病と言われる物です。
ものごころがついた頃から希死念慮…「死にたい」という考えが浮かぶ毎日。そんな中で出会った沈金という伝統工芸を次の世代の方へ受け継ぎたいという気持ちと、何よりも私の命を吹き込むつもりで1つ1つ手がけて来た作品たちに「生きて欲しい」という祈りが、芯にあるんです。

私の作品を通じて沈金に触れて頂いた方、私と同じように病で辛い思いをされている方にも、「生きる」ことへの喜びを与えることができたらと願っています。そして、そう願い続けることが、私にとっての生きる希望にもなっています。

海外から日本へ、沈金を逆輸入

─ 今では海外の美術展への挑戦も。これはどうして?

沈金を、より多くの人に知って頂きたいからです。海外の方に知って頂くということも1つの目的ですが、一番の願いは日本での再評価。

「漆」は格式が高いと感じる方が多く、日本の伝統工芸であるにもかかわらず、残念ながら沈金はあまり知られていません。

であれば、ヨーロッパ各国のように歴史的建造物を、長く大切に使い続ける文化を持つ方々に評価をして頂き、逆輸入のようなかたちで、改めて日本の皆さんにも知って頂ければと願っています。

「日本・フランス現代美術世界展」や「欧美国際公募フィンランド美術賞展」といった海外の美術展への挑戦は、この足がかり。ありがたいことに、「日本・フランス現代美術世界展」では2018年の初応募から3年連続で入選させて頂いています。

今の目標は、ルーブル美術館に隣接する「カルーセル・デュ・ルーブル」のボザール展に出展すること。日本では、タレントの香取慎吾さんが個展を開いたことでも知られる場所です。

5年以内には達成したい目標だと考えています。

      

    インタビュアー/ライター 大熊雅樹

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