#わたしと海
※この文章はヤマハ発動機様の企画「#わたしと海」参加作品です。
※写真の岩はせたな町大成区長磯にある「親子熊岩」。
海に落ちた子熊を助ける姿に見えるためそのように呼ばれている。
わたしにとって海は、懐かしくもあり、近いのに思うように触れることが叶わなかった存在だ。
わたしは、うまれて3ヶ月めから入退院を繰り返しているような非常に弱い児で、それこそ命が危ぶまれたことさえあった。
なんとか保育園に通うようになってからも胃腸症状はままならず粗相を繰り返している状態ではあったが、3歳後半~5歳の頃は非常に活発で、夏場は母に連れられて近くの磯に行き、飽きることなく泳いでいた。
しかし、5歳の冬、わたしはヘノッホ・シェーンライン(Henoch-Schonlein)紫斑病になった。
これはアレルギー性の病、つまり自己免疫疾患。よってアナフィラクトイド紫斑病、IgA血管炎などとも呼ばれるものだ。
これにわたしは腎臓まで冒され、10日間の絶対臥褥と水分禁止、大量のステロイド剤の投与を受けた。
そして、半年間にわたる入院を経て、わたしは海に入ることが原則禁止となった。
調べるなかで、稀な生まれつきの腎臓の異常が見つかったためだ。
それ以来、わたしにとって海は常日頃目の前にあるのに思うように触れられない存在だった。
それでも父は何度もわたしを海に連れ出してくれた。
夏の体育の授業になると、ずっとプールサイドや岩場で独り、クラスみんなの荷物の番をしながら絵を描いていることも学校から聞いていたのだろう。
夏休みになると副団長をしていたボーイスカウトのイカダ作りに参加させてくれたり、親しい漁師さんの船に乗せてもらって一緒に海に出たこともあった。いじめで精神的に病んでしまっていたときには他の町の海辺のドライブインまで連れて行ってくれたこともあった。
母も、嵐の後の岩場にホヤを拾いに行くとき、昆布を干すとき、春先の貝が上がってくる夕方には海に誘ってくれて、一緒に作業した。
思い出はたくさんある。
だが反面、海はとても恐ろしい存在でもあった。
わたしの故郷は日本海沿いで、地形も急峻、海の中の地形にも遠浅というものは存在しない。
沿岸部と海底の地形、水深、海岸構造物の影響を受けて砕け波、干渉波、三角波のような変則的な波が発生し波高が高まりやすい。気をつけていても突然高い波が襲ってくる時があった。寄り返しというやつだ。
これに飲まれて海に落ちたことが一度ある。なんとか這い上がったが、泳ぎを忘れてしまったわたしには恐怖でしかなかった。
同じようにして下級生が命を落としたこともあった。
それだけではない。
わたしの故郷は奥尻島の対岸だ。
北海道南西沖地震の際、死者こそ一人しか出なかったが一部地域が激しく被災した。
亡くなったのは、嘗てわたしが父に乗せてもらった船の漁師さんの息子さんだった。乗せてもらったあの日、その子も一緒に乗っていたのだ。
わたし自身は当時専門学校に進学したため札幌に暮らしており無事、実家も何ら被害もなく済んだが、夏に帰省したときにそのことを聞かされ、打ちのめされた。
夏の凪の海は静かではあるものの、激しい昏い本性を抱き込んだような深い紺色で、ずっと見てきた色なのにそのことがそら恐ろしかった。
それでもわたしは海のことを嫌いにはなれない。
父の百箇日法要の日、町唯一の宿に来賓を饗すためともに向かう道程で見た冬の海はそれなりに荒れていて、沖に鴎のような白波が立ち、止むことなく海鳴りが響き、激しく打ち付ける波打ち際からは波の花が舞っていた。
時化た日の海は本性むき出しだ。
しかし、これこそがわたしの知っている海だと感じた。
わたしがぼんやりと車窓を眺めている間、車内では父の昔なじみの知人や、親類が談笑している。
「ほれ、冬だっけこんなだもの、家も車もみんな直ぐ傷むっけさ」
「したからさ。だからよ。ディーラーの若いあんちゃんも、こった車の直しサ金かかる土地初めて来たって言ってたで」
「そういえばうちの魚探、トヨ(うちの父)に直してもらったんだいな。まだ壊れたらああいうの誰さ頼めばいいんだべなぁ」
独特なイントネーションの浜言葉で、大きな声で話す海の男達は一見荒っぽく感じるが、だいたいにして誰にでも分け隔てなくやさしい。
父も口下手ではあったが、やはりそういうひとだった。
海と関わっていた人たちは、海とはコインの裏と表のようだった。
血液透析の機械に頼らないと生きられなくなったわたしは、あの辺鄙な故郷をあと何度訪れることができるのかわからない。
少なくとももう3年以上は帰れていない。
それでもわたしは、時折イベント出展でベイエリアに向かうとき、モノレールの車窓から見える穏やかな東京湾の海を眺めると故郷の海を思い出し、父を思い出す。
声が大きく、口下手で、浜言葉でぶっきらぼうな言い方をする父の作文指導は怖かった。
でも、丁寧で的確だった。
きびしいが、忍耐強く付き合ってくれるやさしい父だった。
作文や自由研究が学校だよりに掲載されるたび喜んでくれた。
あの父のもとに生まれていなければ、今このように文章を綴ってはいないと思う。
海は父に似ており。父は海と似ている。