【宿題】僕らがものを書く理由

こんにちは。

先日「今の仕事で集中しよう!と思ったことない、おもろいから勝手に集中できるし」的なことを書いたばかりの僕ですが、
にわかにやる気の途切れが観測され始め、大いに戸惑っております。

まあ、無理にやる気を絞り出さなくともよいというスタンスは変わらないので、
ひきつづき気分に身を委ねつつ、頑張ったり手を抜いたりしていきたいと思います。

さて、今回も前回に続いて「宿題」に取り組んでまいります。
内容はずはり、こちらです。

個人が創作・発信する意味

なにやらこのnoteの存在意義そのものを問いかけるような、不穏な響きに満ち満ちております。
これは答えないわけにはいかない。

実を言うとこの「宿題」をお寄せくださったのは、僕にとって非常に思いがけない方でした。
当然のことお名前を明かすことはしませんが、一つ言えるのは、率直に言ってこの方が、僕と常日頃からコミュニケーションを取り合っているお相手では全くない、ということです。
「宿題」の内容よりも何よりもまず、この「宿題」を寄せてくれたのがそういう方だったことに、僕は驚くとともにとても嬉しい気持ちになりました。

今回は、この嬉しい出来事もまた僕にとって、文章を書いて公にするという営みを続ける十分な理由の一つである、という点について、掘り下げて書いていきたいと思います。

「個人」の定義

本題に入っていく前に、ここでいう「個人」の意味をはっきりさせておきます。
すなわちここでは「個人」を、「創作・発信の基盤をなす組織に属さず、また創作・発信によって外部からの利益を得ていない一個人」と考えます。
創っても金にならないし、社会はじめある種の界隈に対して大きなインパクトを及ぼせるわけでもない、
そんな個人が創作物を世に出すことに、どういう意義があるのか。
このような問いであるという解釈のもと、回答させていただきます(大前提からしてズレてたらエラいことだね!)

コミュニケーションの多彩さ

コミュニケーションの射程というのは実にさまざまでありえます。
そのことは、コミュニケーションツールが現代において多様化している状況からもわかると思います。

会話や手紙、電話、メール、LINEにSNSその他もろもろ、現存するツールは実にさまざまです。
そして、それぞれのツールにおいて想定される距離感や、伝えられるにふさわしい情報の内容もまちまちと言えます。
表情や声色など、非言語情報まで十全に伝えたければ、会話に頼るのが望ましいでしょうし、
誤解なく事実的な側面のみを伝えるには、メールが適しているかもしれません。
コミュニケーションの内実に応じてメディアを使い分けることの重要性は、情報社会を生きるうえで必要なスキルについて語るとき、ほぼ必ずと言っていいほど指摘されるところかと思います。

どこの誰に、
どの情報を、
どの部分を切り取り、
どのようなニュアンスを引き立てて、
いかなるタイムスパンの中で伝えるかーー。
何重もの条件を考慮して適切な伝え方を選び取り、伝えたい事柄を乗せて送り出す。
これがコミュニケーションにおける「発信」の基本ではないかな、と僕は考えます。

箱が中身を決めてしまう

ところで僕は、「発信する内容が発信の手段を決める」という側面が存在すると同時に、
「発信手段の側が、発信される事柄のありようを規定してしまう」という側面もある、と考えています。

たとえば、Instagramを考えればわかりやすいです。
本来は発信の一手段でしかないはずのインスタが、いまや「映えるものを発信することが優位に立つ」メディアとして、投稿者の発信内容をかなり強く方向づけていることはご理解いただけると思います。
「インスタに上げるからには《映えるもの》を!」と、ユーザーは当然のように考えがちです。

ただ、こういう方向づけは、本来べつに当たり前でもなんでもありません
機能だけを見れば、インスタは単なる「写真共有アプリケーション」であり、
投稿内容はどうあれ「写真を共有する」という使い方さえなされていれば、主旨には合致するはずだからです。
しかし実情は、その主旨をはるかに超えています。
インスタというツールはもはや、ユーザーの投稿の内容を一定の方向へと規定する枠組みとしての機能を、備えていると言ってしまってよいでしょう。

あるいは、メールとLINEの使い分けを考えてもいいと思います。
メールの文面を考えるにあたって、LINEと同じような文体や体裁を選ぶことは相当まれなはずです。
と同時に、LINEで行われがちな情緒的・動物的(インスタントな感情を短い言葉でわーっと送り合う、くらいの意味です)なコミュニケーションを行う可能性は、メールという手段を選ぶ時点で、早々に排除されると思います。

Re: 渋谷のスターバックスで##氏が彼女といちゃついているのを見た件
To: aaa@〜.ac.jp

   ○○大学☆☆学部
 ** ** 様

  まじでワロタ
   
   △△ 拝

------
○○大学☆☆学部
×× ××
E-mail: bbb@〜.ac.jp
TEL: 000-000-0000 / FAX: 000-000-0001

絶対やらないですよね。やってはいけないという明確な規則があるわけではないにもかかわらず。
これもまた、ツールが発信の内容を暗黙理に規定し方向づけている一例とは言えないでしょうか。

このように、僕たちは少なからず、発信を行うメディアに応じて、その内容を調整しているわけです。

僕らがものを書く理由

情報の質や量というのは千差万別であって、すべてがすべて、インスタントなコミュニケーションのために用意されたツールに適合するとは限りません。

まずそもそもの話、これだけ多様なメディアに溢れた現代ですが、はたして以下のように言い切ることはできるでしょうか?

いかなる情報も必ず、それが発信される手段としてふさわしい、既存のメディアを有する。

どうでしょうか。僕は否だと思います。

かりに植物状態の人間に感情があるとして、その感情の中身を伝えるメディアというのは、おそらく今のところ存在していないはずです。
脳のスキャニングによって脳の活動の様子を知ることは相当程度可能ですが、それを「感情」というより具体的な形に変換するところまでは、技術は進展しきっていません。
こうした、伝える手段がないゆえに伝えられない情報というものは、この世の中には少なからず存在すると思います。

これほど極端でないにせよ、私たちが主として用いるツールを介したやりとりでは、どうしても全体を拾いきれない情報というのもまた存在します。
無理やりそこに当て込んでしまうと、十分に伝わらなかったり、誤解を与えたりする、複雑で繊細で(ときに巨大な)情報。
事の全貌を歪めずに伝えようと思えば、それらをきちんと読み解いて整理しなくてはなりません。
戦地に赴くジャーナリストや、社会派ドキュメンタリーの作り手は、そういう複雑で深みのある事柄を、なるべくありのままに近い形で伝えるために、
扱うのに手間もコストもかかる、ときにリスクすらともなう手段を用いて、情報を集め、整理し、発信しているわけです。

ここで、僕らの話に戻ります。
「創作・発信の基盤をなす組織に属さず、また創作・発信によって外部からの利益を得ていない一個人」であるにもかかわらず、ものを書いたり創ったりして、発信している僕らの話です。

僕らの思いの中には、会話や手紙や電話やメールやLINEやSNSやその他もろもろのツールには十全に適合せず、それらによっては他者に伝えることの叶わない「何か」が含まれています。
それは、僕ら自身にとってきわめて重要なものであるにもかかわらず、インスタントなコミュニケーションの中では到底言い表しようのない、複雑さや繊細さを備えたものだったりします。

誰かに受け止めてもらって、世界の中に存在していてよいのだという肯定を与えてほしい、とても重要で大切な思い。
けれども、それは複雑かつ繊細であり、きちんと伝えようと思ったら膨大な情報量に上ってしまうものです。

創作を行って発信するという営みは、そういった一筋縄ではとらえきれない、ありきたりのツールでは伝えきれない僕らの中の「何か」を、
独自の(ないしそれほどメジャーとはいえない)形で誰かに伝えようとする行為だと言えないでしょうか?

もちろん、全く独自の手法でなされた創作が、世の中できちんと受け止められることはきわめて稀です。
完全にオリジナルな言語で書かれた文章を一から読もうと試みる読者は、限りなくゼロに近いでしょう。
この世で自分以外誰も持たない手法でしか伝えられない劇物を抱え込んだ人というのは、誰よりも独創的でありながら、誰よりも苦しい思いをするものかもしれません。

ですが、ラッキーなことに僕が採用している「文章を書く」という手法は、メジャーとは言えないながら世の中で広く共有されているものです。
そしてそれを使えば、インスタントなコミュニケーションには載せきれない膨大な情報を、なるべく歪めない形で伝えることができます。
かつ、わざわざその読み手となってくれる人たちには、そういうややこしい情報を受け止めてくれるーー受け入れてくれるかは別としてーー素地があると、書き手としては期待できます。

誰かが文章を書き、誰かがそれを読む、というコミュニケーションは、僕が抱え込む「何か」を扱うのに、きわめて向いているわけです。

そして、繰り返すようですが、「文章を介したコミュニケーション」というスタイルは、それ自体が、
そこに関わる人たち、つまりここでは書き手と読み手のスタンスを、ある程度方向づけてくれます。
つまり、多少マジメな話だったり、LINEやメールじゃ到底話せないセンシティブな話でも、文章を介せば真剣に扱う気になれるわけです。

文章を書き、公開することで、普段とまるで違うコミュニケーションのゲートが開かれる。
それは、思いもかけない人のつながりや、新たな世界の広がりを、僕のもとへと呼び込んでくるはずです。

冒頭に書いたとおり、今回この「宿題」を寄せてくださったのは、僕にとって実に意外な方でした。
そんな方とこのような形で接点が生まれたのは、まぎれもなく、「文章を書く」という僕の「創作の発信」によって、それまでになかったコミュニケーションの回路が開かれたからに他なりません。
これが創作の喜び、楽しみでなくて何でしょうか。
この喜びや楽しみがある限り、僕は文章を書いたり、あるいは他の形でもって、何かを創り続けることだろうと、大いに展望できます。

おわりに

かなり長くなってしまいましたが、今回の「宿題」は、僕自身がものを書く動機そのものと関わるものだったので、少し気合を入れて答えてみました。きちんと回答になっただろうか……。

文章表現に限らず、あらゆる創作的な営みは、コミュニケーション的な側面を持っていると思います。
ちょっとやそっとじゃ伝わらないこの気持ちを、わかろうとしてくれるあなたには伝えてみたい。
そんないじらしい思いが、人を創作へと駆り立てるのではないかと、僕は思っています。
それがわずかでも報われたとき、喜びで胸がうずくのを知っているから、僕は懲りずに何かを創るのです。

ということで、ひきつづき当noteでは「宿題」を募集しております!
ひとつこんなことを書かせてやろうか、というトピックがありましたら、是非下記のフォームよりお気軽にお寄せください。

それでは!


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