「アカペラとは何か」を語る 〜なんで俺アカペラしてるんだろう(3)〜【宿題】

ち まさんにとってアカペラはどういう存在ですか?

気が済むまで言わせてほしい。僕なんかが答えていいんですか。。。
いまだにどういう心づもりで書いていいのかわからんのです。そう思っちゃうのも自意識過剰か。

……貧弱な能書きはここまでにして、これまで2回に分けて書いてきた僕の遍歴をふまえたつつ、僭越ながらこの「宿題」に答えてまいります。
なんでぼく/わたしアカペラやってるんだろう、やる意味ってなんだろう、と問わずにいられない誰かにとって、僕の答えが何かしらの響きを与えればいいなと思いつつ。

一応、前2回の記事のリンクを貼っておきますので、よろしければ参照ください。

それでは、参ります。


キャンプとかトランプみたいなもん

割とよく思うのは、アカペラってキャンプみたいだ、ということです。
楽器やコンピューターが発達している時代に、あえて声だけで音楽を作るというのは、文明をいったん手放して原始に立ち戻った生活をするのに似ていると僕は感じます。

それゆえに、僕自身としては、アカペラというスタイルをとるからには、なるべくその原始性みたいなものを大事にしたいと考えたくなります。
「あえて声しか使わない」という制約を課す以上、制約そのものを楽しむのが醍醐味ではないか。
「あえて〜しない」を初期条件に据えるなら、あくまでそれに準じたい、と。
わざわざ設けた制約に対して逆行するくらいなら、最初からその制約がないスタイルを選ぶほうが、手間も暇もかからないし合理的ではないでしょうか。

端的に言えば、「声しか使ってない《のに》こんなにすごい!」という評価を、アカペラをやる上で僕個人としてはそんなに求めていない気がします。
わざわざ好き好んで原始的なことをしている以上、そこでなにも文明(楽器を使った音楽とか、電子音楽とか)の真似事に走らなくてもと思ってしまいます。
文明的なことをしたいなら、素直に文明を頼ればいい。
与えられた声ひとつ身ひとつ、それだけと向き合うなかで出てくる良さこそが、僕がアカペラに最も求めるものなのです。おそらく。

言うなれば、テレビゲームやソーシャルゲームが席巻するなかで、あえてトランプで楽しもう、みたいなことかもしれません。
そして、「あえて」やるからには、プレステ4のソフトが提供してくれるような壮大さや複雑さをトランプに対して求めるのは、お門違いだと感じてしまう。
トランプでしかできない楽しみ方を、トランプの中から探すからこそ、わざわざプレステ4ではなくトランプを選ぶ意味があるわけで、
バーチャルリアリティやスペクタクル的なエンタメを求めるなら、最初からプレステ4を買えよと思ってしまうのです。
あくまで個人的な志向として、ということは付け加えておきます。

ちなみに僕が好むのは、どちらかといえば神経衰弱とか七並べのように素朴でシンプルなアカペラであり、セブン・ブリッジやブラック・ジャックみたいなアカペラの良さはあまり理解できていません。
たぶん音楽へのリテラシーが低いからでしょうね……。

武道にも似てるかも

なぜ僕がアカペラ、あるいは歌そのものを好き好んで続けているかといえば、それは結局「自分(そして他人)の声や心身とじっくり向き合うのが面白いから」ということになると思います。

先に書いたように、アカペラは声ひとつ身ひとつで作り上げるものです。
そのため、自分自身のそのときそのときの状態が、きわめて如実に演奏へと反映されます。
自分の声や心身への理解を深めることで、演奏の幅や豊かさが増す、という意味でもそうですし、
その日その日のコンディションが演奏の質を大きく左右する、という意味でもそうです。

さらに言うと、合奏という形式をとる以上、メンバーの声や心身のあり方に対しても気配りが必要になります。
この人の声はどんなふうに出ているのか、今どんなことを感じながら歌っているのか、
そういったことを見極めて、自分と相手をすり合わせていく作業を、欠かすことはできません。

そういう作業を、生身に最も近い状態で積み重ねられるからこそ、僕はアカペラを楽しいと感じるのだと思います。

そして、こうした過程を通じて、歌そのものについてと同じくらい、自分自身についても多くの気づきを得てきました。
負担のない身体の使い方、浮き沈みのある精神的なコンディションとの付き合い方、他人との距離の取り方など、学んだことは相当多いです。
言うまでもなくこうした気づきは、アカペラや歌にとどまらず、実生活のさまざまな場面に活きています。

もしかすると、僕が歌、そしてアカペラというスタイルを好む心情は、武道に邁進する人のそれに近いかもしれません(武道の経験がさっぱりないので無責任なことは言えませんが……)。
技を磨くなかで自分や世界を見つめるうちに、心技体の充実と均衡が図られていき、
そのプロセスがまた、自分自身への洞察を深いものにし、視野を広げていく。
この繰り返しが武道の核であるとすれば、僕にとって歌やアカペラは、やはり音楽というより武道に近い気がします。どうりで音楽リテラシーが育まれないわけだ。

4年間という縛り?

偉そうなことをもったいつけてペラペラ語ってきた感がありますが、恐れずに言うとこれは決して格好つけなどではなく、僕の実感を誠実にたどったものです。
僕にとって確かに、歌は一生かけて付き合うに足る趣味であり、アカペラはその楽しさを一番ありのままに近い形で他人と共有する、ベストな方法の一つなのです。

そんな僕ですから、いわゆるサークル在籍期間、つまり4年間あるいは6年間というタイムスパンを、制約として意識することは(今となっては)あまりありません
また、その期間で何かしらの結果を出さないといけないとも思いません。
期間が問題になるとすれば、それはサークルに対して迷惑がかかるとか、バンドメンバーの都合とそぐわないとか、人や組織との関わりにおいてでしょう。
アカペラそのものをやっていくことについて、時間が縛りになると考えることは滅多にないのです。

ただ、そう思うのは僕個人の立場ゆえであろうことは、強調しておきたいです。
一つには、僕が歌やアカペラの面白さに気づくまでに、4年よりずっと長い時間かかった人間だからだと思いますし、
もう一つには、自分がもはや「二度と戻れない時間」を過ごす身ではなくなってしまったという事情も関係していると思います。

高校生としての3年間にせよ、大学生としての4年間にせよ、あるいはそれ以前の日々にせよ、それらは半ば受け身的に与えられたものであるがゆえに、自分で再び手に入れようと思って手にすることはできません。
(自分の意思するものを手に入れようと試みることはいつでもできますが、外から与えられるものを手に入れることは、どうしたって自分の意思だけでは叶わないですよね。)
そういう「二度と戻れない時間」を過ごす機会は、学生時代を終えた今、僕にはほとんど与えられません。

僕の目の前に横たわるのは、向こう50年だか60年だか、どれだけ続くかわからないにせよ、とにかく真っ平らに広がる、「死ぬまでの時間」とでも呼ぶしかないような漠然とした時間だけです。

この時間感覚は、「今しかない」学生時代を過ごしている大学生や高校生の人たちには、おそらく想像しがたいのではないかと思います。
見方によっては無限の自由とも、先の見えない五里霧中とも取れる、真っ白な時間が目の前に広がっている感覚は、「過ごし方を誰かに決めてはもらえない」立場になって初めて得られるものであるはずだからです。

僕は、悲しいかな学生時代に「二度と戻れない」立場であるがゆえに、「いつまででもアカペラはできると思うし、やっていきたい」と考えられるのです。おそらくそういうことだと思います。
だから、今しかない時間の中でもがいたり苦しんだりしながら、なんとか結果を出したり答えを見つけたいと思っている人たちに、僕の考え方が通用するとはそれほど考えられません。
「今しかない」という感覚が本物で、それを裏切れない限りは、その感覚に身を委ねて走りきるしかないでしょう。それもまた一つの正しい姿です。
そうである以上、身動きがとれない今に苛立つ学生アカペラーの皆さんに、安易な気休めを言うようなことは、僕の立場ではできないのです。

それでも、あくまで僕の立場から一言言うとすれば、やはり「やろうと思えばアカペラはいつまででもできるし、歌はいつまででも歌える」ということになります。
今の状況は、限られた時間しかない人にとっては致命的だろうし、それに対して僕はかける言葉もないけれど、
長い目で見られる立場からすると、希望をまったく棄てなくてはならない状況ではない、と胸を張って言えます。それは確かです。
希望を捨てるなと人に説いて回るつもりは到底ありません。
けれども、希望を捨てずにいられるあり方というのもあるのだということだけは、ここで強く主張しておきます。それくらいは許されると信じてる。

歌おうと思えば、いつまででも歌える。
そう望むなら、それはできないことじゃない。

僕の考え方は、こういう見方に支えられています。

誰かとやるから、いい

だいぶ長くなってしまったので、最後に一点ふれて終わります。

僕はどちらかと言うと、一人でいるのが苦にならない人間です。
もちろん年がら年中ぼっちでいるのはしんどいですが、何をやるにせよ、チームプレーよりは個人プレーに軸足を置いたやり方のほうが性には合っています。
休みの日も人と会うより、一人で何かして過ごすほうがよほど多いです。

しかし、そうであるからこそ、自分の中にこもってばかりいると、考え方や価値観がどんどん歪むものだということも知っています。
それで失敗してきたことも何度となくあります。今だって、うまく対処できていると言い切るだけの自信はありません。

僕にとってアカペラは、本当に貴重なコミュニケーションの場であり、ツールです。
人と協働して何かをつくるというのがどういうことか身をもって知ることができる、なくてはならない機会です。

そもそもJP-actに入ってアカペラを再開したのも、一人であることの限界を感じたからでした。
大学を出て以降、僕は一人で歌を歌い、一人でものを書き、一人で出かけ、ひたすら一人の生活をしていました。
でも、そこから生まれるものの乏しさ、貧困さに気づいたとき、僕はやはり人と関わらなくてはならないと強く思うに至りました。
少なくとも僕という人間にとっては、他人から与えてもらうもの、他人をきっかけに得られるものが、人生を回すうえで欠かせないものだと、一人ぼっちを続けた末に気づいたのです。

アカペラを通じて人とつながる、などという表現は陳腐にすぎるかもしれません。
しかし僕がなぜアカペラを続けるのか考えるうえで、その側面は見過ごせないものです。
振り返ると、あんなに嫌だった学生時代のアカペラ生活が、いまだにつないでくれている縁もあります。
人とやるものだからこそ、ぼっちが板についた僕にとって、アカペラはとても大切なものなのです。

おわりに

結局すごく長くなってしまいました。最後まで読んでくださった物好きな方、毎度ありがとうございます。

コロナですっかり活動が停滞していて、ともすればアカペラのことなんて忘れてしまいそう、というのが今の正直な現状です。
カラオケも次々に営業をストップしていて、歌も満足に歌えない。
鼻歌程度に歌うか小声で発声練習をするかくらいが関の山、という今日この頃です。
(僕だけに限った話じゃないですね。)

そんななか、今回の「宿題」に正面から取り組めて、本当によかったです。
自分がどんな思いで何をしてきたのか、文章にしていく作業を通して思い出したことで、
これまでの積み重ねを無駄にせず大事にしていこう、さらにもっともっと積み重ねていこう、とあらためて決意することができました。
誰に読ませる文章でもないけれど、自分にとってはたいへん意味のある文章になったなぁと、心から思います。

完全に暗黒期の様相を呈しているアカペラ界ですが、きっと闇が晴れて、また楽しく歌える日々が戻ってくると信じています。
そのときまでは、とにかく自分のできることをやるまで。
明けない夜はないと信じて、僕はじっくり積み重ねを続けていきます。


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