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頭が良いには三種ある

「日本は死者数が少ないが、薬を持ってるのか?」

と他国から電話がかかって来た時、

「おたくの国とは民度のレベルが違う」

と言い放ったことを、国会の場で発言した大臣のニュースを見て思った。

怒りなどは湧かなかった。だからと言って関係ないとも思わなかった。

ただ淡々と、「勉強ができると、頭が良いのと、賢いことってのは全部違うよなぁやっぱり。」と思った。


その人がそう思うのは仕方がないと思う。

賛同しているわけではないし、初めからそんなことを思わないのが1番だ。けれど、人は簡単に残酷なことも頭の中で考えるものだし、そこを他人が外からコントロールすることは不可能だ。

私は他国の人との関わりも日常的にある環境なので、例えば国籍でのヘイトや攻撃的な発言もすごく嫌いだし、目にするのは苦手だけれど、そう思うなよとは思わない。

半ばそこは諦めている。自分の頭の中だって、違うことで血みどろに汚れる日だってあるのだから。誰の思考も否定はしない。頭の中だけは完璧に自由だ。


ただ、それを表に出して、対象に簡単に届けよう(ぶつけよう)とする人は理解ができないし、驚く。そこには知性がないのだな、と思ってしまう。


昔から母が洗濯物を畳みながらも、ふとした夜にゆっくりしながらも、そして友達を傷つけた兄を叱りながらも、何十回と言っていた。

「勉強ができればいいんじゃない。ほんとうに頭がいいっていうのは、人の気持ちを考えて行動できる人のことよ」

母が言っていた言葉の中で1番心に残っている言葉だった。そしてそれを暖かく大切にまぁるく光る円にして頭の中で転がし、いろんな国、場所、環境で過ごしながら事あるごとに引っ張り出しては考えていた。

長い時間を経てそうするうちに、一般的に「頭がいいという表現に一括りにされる中には3種類の違いがあることに気付いた。

勉強ができる人と、頭が良い人と、賢い人である。

勉強ができる人は文字通りだった。いつもテストでいい点を取り、成績が良かった。要領もよく、それは素晴らしい事だった。ただ、中には目の前の人が傷つくことに抵抗がないんだろうなと思わせる行動をする人も多かった。

頭が良い人は、勉強ができるかは関係なかった。ただ、人が何をしたら嬉しいかとか、逆に嫌なのかを察知する能力が高く、それを巧みに使い分けた。人の心を掴む、もしくはコントロールすることがうまい人だった。

賢い人は、自分が嫌なこと、辛いことは人にしない人だった。言ったら相手が傷つくことは脳から外に出さなかった。そして人と自分が根本的には違うということを心の奥底に落とし込めてる人だ。無理に理解するとかそういうことではなく、敬意を払い、人も自分も1番楽にいられる、楽しくいられる選択をできる人。

どれが良いか悪いかなんて、ここでは言わない。良し悪しなんて重要じゃない。ただ、少しでも賢くあることで、自分の言いたいことが人に正しく伝わるだろうとは思った。

「(そちらとは)民度のレベルが違うので」より、「多くの国民が呼びかけに応えてくれたからです」だったら、相手方の国の人は絶句しなかったかもしれない。もっと良い言葉もあるだろう。言いたかったニュアンスが正しく伝わったかもしれない。

日本人として生まれ、言葉を扱うのは結構大変なことだ。ニュアンスも微妙だし、言い方やトーンに関しても細かい気がする。高度なことだとわかっている。けども思う、自分はなるべく賢くなれるように磨いていきたいと。言葉は大切にしていきたい。言いたいことを言う時に、わざわざ相手を嫌な気持ちにさせることは必要ないのだから。



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