これからの新しい時代に、新しい子育ての場所を
今日、生きている世界は、たった3〜4ヶ月前には、予想もしなかった世界になっている。
これまでの普通は、普通じゃなくなる。いろいろなことが変革されていく。
そんな中で、私がいつも想いを馳せるのは、どうしても子どもたちのことみたいだ。
そして、その子どもたちを支える親のこと。
私はまだ独身で、子どももいない。
でも、ずっと、子どもたちのことが好き。これはもうそうなんだから、理由は聞かれてもわからない。
子どもは大人になっていくけれど、一本の線でつながっているのかもしれないけど、それでも子どもにしかない、いろんなものがある。
そのなんだか目に見えない子どもだけの何かに、ずっと心惹かれているのかもしれない。
私が幼稚園に就職して、早い段階で感じていた違和感があった。
それは、保育や教育の計画の中で書かなければならない、子どもたちに対しての目標・ねらい と 評価。
多くの幼稚園でも、日案や週案、月案、学期や期ごとの計画、年間カリキュラムなどを作成すると思う。
その必要性を感じる場面はないわけではなかったので、やっぱり必要なものなんだろう。
でも。
例えば、主活動で「椅子取りゲーム」をするとしよう。
その日の日案には、年間カリキュラム・月案・週案からおろしてくる、「活動のねらい」「予想される子どもの姿」「援助方法」を事細かに書かなくちゃいけない。
確かに、ただ適当にゲームをやればいいってものではないので、椅子取りゲームをするには、確かにそれなりの理由はもちろんあるのだけど…
「活動のねらい」等を書いて主任や園長に提出すると、直される。ビッシリ赤が入る。まったく違うニュアンスの言葉に直されていることもあった。書き直しても、さらに2〜3回訂正されたこともあった。
子どもたちとのかかわりは、生物(なまもの)だと思っている。それに、気温や湿度や天気のように、少しずつ変わっていったり、いきなり違う様相を見せることもある。
事前に、担任という一個人の想像のできる範疇の中で、また(悪くいうつもりはないのだが)普段の保育の中で生物の子どもたちの様子を体感していない園長が直した、そんな活動のねらいが、果たしてどれほどの効果があるのか。
そんなことを、いつも漠然と思っていた。
業務としてやらなくてはいけなかったから一応やったし、次第に「上司に直されないような書き方」まで身についてしまった。
でも、毎日、毎週、何時間も費やして、間に合わなくて休日の時間も使ってまで書いていたのに…
日案があったから、いい保育ができた!
と、実感したことは…
うーん、ほとんどない。
子どもたちは、いとも簡単に大人の想像を超えてくる。あらかじめ子どもたちの姿を予想して、その時の援助方法を考えていたって、生物の子どもたちは、その時その時で本当にいろんな表情や動きや言葉で、大人の想像を裏切る。
そして私は、その時に、リアルタイムで、ガチで、子どもたちと同じ目線に立って、ああしようかこうしようかと考え、時に「先生も悩むな〜本当にどうするのがいいと思う?」とか言って、そしたら子どもたちから可愛らしくて素晴らしい案が出たりする、そんな瞬間が、好きだ。
そうやって、そこにいる私と、子どもたちの、その場でしか感じられないエネルギーの中で、みんなが何かを体験し、吸収して、育ちにつながっていく…。それは本当に素晴らしい瞬間なのだ。
…そして残念なことに、その時に、何時間もかけて書いた週案や日案は、頭のどこにも存在していない(笑)
そして、評価もしかり。
私の勤めていた園は、いついつまでに全員が◯◯ができるようになる、と言ったような、画一的なものは求められなかったが、それでも子ども一人ひとりに定期的にねらいや目標を立てる。
そして評価については、「達成できた・達成できない」の2択で評価するわけではないのだが、やはりそこでも大人の勝手な解釈で、「まだ◯◯な部分があるため、◇◇できるよう援助していく」とかなんとか、書かなければいけない。
子どもたちは、みんなそれぞれのペースで、昨日体験して学んだり失敗したりしたことが、また今日の経験で深まったり、なんだか180度ひっくり返ったり、いきなり大きな壁を越えちゃったり…そうやって、本当に毎日毎日、変化をしながら成長していく。
その成長とは、一本線じゃないし、前に進むだけとは限らない。ぐるぐるしたり、戻ったり、太線になったり、一時的に細くなったりもする。
そんな子どもたちを…“評価する”って…。本当は誰のためにやっているんだろう。
働いている側の、教師を評価するためのシステムではないのか?と思っていた。決められた書式で計画を立て、決められた書式で評価をする。それを、遅れずに、不足なく提出することが求められる。
子どもたちが日々成長をしていく現実の前では、そんな大人用のシステムのために数行で書いた評価の文章は、なんだか陳腐なものに思えた。
子どもたちに対する評価ではなくて、教師自身が、子どもたちにどういうかかわりをするのか・したのか、それによって子どもたちがどう変化したのか、それを踏まえて次はどんな声かけや見守りをするのか。
そういう教師自身に対しての、目標やねらい、評価こそが、必要で重要なことであるはず。
もちろん、そこに重点を置いている園もあると思う。私が経験したことがないだけで。あるんだとしたら、そういう園がもっと広まってほしい。
そうこう言いつつも、私は、子どもたちと一緒に過ごした場が本当に好きだった。
けれど、これから先、幼児期の保育・教育の環境は変わっていく必要があるとも思っている。
働く女性が増えた。保育園に預ける人も増えた。保育園は子どもを預ける場所だけど、料金はかかるし、一方保育園を運営する側もビジネスとしての側面ももちろんある。そうやって社会は回っている。
けれど。
例えば、お迎えが、18時14分59秒を1秒でも過ぎたら、延長料金が発生するという現実。そんなギリギリのラインで、親がいつも焦って、ストレスを抱える。時間を超えた超えないで、無意味とも思える軋轢が生まれる。
保育園に預けることで、そんな副産物が生まれてしまうのは、健全なことなんだろうか。
それから、良いのか悪いのかの議論は置いておくとして、預けられさえすればどの保育園でもいいといったような考えをもつ方もいる。状況的にそう考えざるを得ない場合もあるのだろう。
しかし、正直保育園によって保育の質はピンキリ。大切な大切な我が子を、1日何時間も預かる場所は、なるべく、できるだけ、いいと思うところを選んでほしいな、と思う。
さらに、このまま少子化が進めば、待機児童解消のために増加した保育園が、定員割れで閉園していくことも容易に想像ができる。
さて、こんなことをぐるぐると、ふとした時に、それから時間をとって意識的に、考えているんだけど。
そして、冒頭に戻る。
常識は、変わっていく。
今までの当たり前は、当たり前ではなくなっていく。
ならば、教育界・保育界に新しい風を吹き込むことだって…。
そうは言っても、既存の教育システム、保育システムがガラリと変わるには、それ相応の時間を要するし、もしかしたら、日本は、変わらないかもしれない…。
だとすれば、既存のシステムではない、新しい子育ての場が必要になってくる。
大人も子どもも。おじいちゃんおばあちゃんも、赤ちゃんも。
年齢とか、学年とか、そんなの関係ないところ。
保育園でもない、幼稚園でもない、学童でもない、児童館でもない、子育て支援センターでもない、それでいながら子どもたちや、地域の人々の居場所になるようなところ。
ここからは、私の頭の中のアイディアである。
いいネーミングがまだ浮かんでこないんだけど、ここでは『みんなの2ndハウス』としておこう(笑)
朝、お母さん(ここではお母さんとしますが、もちろんお父さんも)が、まだ乳幼児の子どもを連れて、みんなの2ndハウスにやってくる。
お母さんは仕事スペースへ。リモートワーク、物作り、ライターなど、それぞれの仕事をそこで行う。
子どもは、仕事スペースから少し離れたプレイルームへ行き、保育士や地域のおじいちゃんおばあちゃんと遊んで、午前中を過ごす。
途中、お母さんの様子を見にいったりもして。
お母さんは子どもの様子を見て、微笑む。仕事をしながら、子どもの存在を感じることができる。
子どもは安心してプレイルームへ戻ってくる。
まだおっぱいやミルクが必要な赤ちゃんは、授乳タイムももちろんいつでもOK。
お昼ご飯は持参している人もいるし、キッチンスペースで簡単なものを作る人もいる。ランチタイムは一旦家に帰る人もいる。
午後になると、お昼寝が必要な子は、保育士の見守りでスヤスヤと。
おじいちゃんおばあちゃんは、お散歩がてら買い物をして、自分の家へ帰る。
お昼寝が終わる頃には、小学生たちがやってくる。
宿題をしたり、小さい子と遊んだり。
近所のいろんな人が、ふらっと立ち寄ったり、世間話をしたり、息抜きしたり。
夕方、お母さんの仕事もそろそろひと段落。
まだ仕事中のお母さんに声をかけてから、子どもと一緒に帰る。
こんな日常が、あったらいいな、と。
みんなの、もう一つの居場所。
私は自分の子どもができた時、こんな場所で過ごして、働けたら、どんなに幸せかと思う。
もちろん、子どもをもつ女性が今の働き方で満足して充実しているなら、それは素晴らしいし、素敵なことだと思う。
でももし、産育休を取るために無理して会社に勤務し続けなければとか、保育園に預けるために無理してフルタイムで働いていなければとか、そんな「ねばならない」状況になるのだとしたら、控えめに言って、本当に嫌だ。
そんな「ねばならない」があるから、子どもをもつことで、女性が自分の人生の時間を犠牲にするなんて、思わなくてはいけなくなる。
そしてもう一つ大切なこと。みんなの2ndハウスは、ボランティアとかではなく、そこで経済活動が行われていて、もっと言えば、小さな社会になっていることが必要だと思っている。
ハウスには利用料がかかる。
ハウスの保育士は、雇用契約がされている。
それから、ハウス内で作家系の仕事をしている人は、ハウス内で販売もできる。
保育を担当する地域の方にも賃金が支払われ、仕事として責任をもって子どもたちとかかわってもらう。
そうやって、お母さんやお父さんやいろんな人が働いている姿を、子どもたちは目の前で見ることができる。
それから、みんなが自分の得意なことを生かしてセミナーを開催したり、教室を開いたりする。
その主催者は、子どもだっていい。参加費や経費なんかも、ハウスの人たちに聞きながら自分で決める。学校の授業より、よほど自分が生きる社会のことを、実感をもって知ることができると思う。
そして、先述した既存システムのための、ねらいの設定や評価は、意味をなさなくなってくる。
意図したねらいを超えて、必要なことは、周りの人との関係の中で自然に体験することができる。
誰かの主観でなされた一方的な評価ではなく、互いのいいところを認め合い、苦手なところは補い合えばいい。
オンラインが主流になっていく世の中だからこそ、地域の中でのこんな居場所が、他にはない価値を持って輝くのではないかと、私は結構本気で思っている。
一つひとつは大きくなくていいから、地域ごとにこんな場所があって、行きたいと思ったら気軽に行ける。気負わずに行ける。
これからの新しい時代に、こんな子育て環境を、地域のコミュニティーを、盛り上げていきたい。
まだまだ、実現に向けてはいろんなことを調べたり、準備したりが必要だけど。
まずは小さくてもいいから、当たって砕けろでもいいから、作ってみよう。まずは単発イベントからでも。
というわけで今日は、今後拠点にしたい街の下見をしてきた。飲食店のテイクアウトを盛り上げたり、様々な人が協力して子ども弁当の販売をしたりと、街全体でこの大変な状況を乗り切ろうとしている空気を、肌で感じた。
ここでなら、私もできる。そんな気がした。
子どもたちと、子どもを支える親と、地域の人々と、そして何より自分自身の幸せのため、『みんなの2ndハウス』(仮※もっとグッとくる名前を考えたい!笑)を実現させようと思う。
未来を担う子どもたちの健やかな成長を願って…。大切に使わせていただくことを約束します!