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「記録する」ということ

クリスチャン・ボルタンスキー展に行ってきた。二週連続で美術館に行ったのなんてほんと久しぶり...。ボルタンスキー、どっかで聞いたことあるけどどこだっけ...と思ってたら、展覧会入って資料渡されて思い出した。そうだ、豊島で行った「心臓のアーカイブ」だ。

「心臓のアーカイブ」にたどり着くまでにごくフツーの田舎道、あぜ道を延々と歩いたので「こんなとこにほんとにあるのか...?」という不安が顔に表れていたのか、近くの家の女の子が「美術館に行くんですか?こっちですよ〜」と目印になるところまで案内してくれた。旅先での人の親切って、数年後、後々になってもくっきり覚えてる。

いざたどり着いて入ってみると誰もいなくて、真っ暗な部屋の中で心臓の「ドクン、ドクン」という力強い音に合わせて光がぴかぴかして、あれはけっこう怖い体験だった。生命力って、美しいだけじゃなくて潜在的に怖いものな気がする、うまく言葉で言えないけど。

さてそんなボルタンスキーの展覧会、けっこう最初から最後まで意味不明である。新聞紙みたいな資料を渡されるんだけど暗くて字小さくて読んでなかったら、作品の横にまったく説明書きがなく終始意味不明さの中に取り込まれてしまう。普通の家族の写真がずらり並んでいたり、子どものポートレートがずらり掛けられていたり。普段資料は後から読んだりするんだけどこのときばかりは読んだ。そうか、戦争で犠牲になった市民や子どもたちの写真が多いのか。

資料では一貫して、ボルタンスキーは「記憶、記録」をテーマに作品をつくっていると書いてあった。そのあと、文字通り真っ白な銀世界の中、いくつものベル(大きい風鈴みたいな)が風に吹かれて鳴っている10時間のビデオを見る。ふだんあんまり意識的にうまくぼーっとできないんだけど、この意味不明なビデオを見てるとその意味不明さがだんだん心地よくなってきて、ぼーっと見てしまう。意味がわからないからこその心地よさってあるんだなと感じながら。

ぼーっと見ながら、「記録」するってなんだろう、とぼーっと考える。ふつうの家族写真も、亡くなった人たちのポートレートも、それ自体が「アート」ってわけじゃないから、つまりどこにでもあるものだから、何を基準に彼ら(の写真)が選択されたのかわからない。ここで見た人以外にもたくさんの人が戦争で亡くなっていることを私たちは事実として知っている。その「記録」の恣意性や偶然性、みたいなことに思い当たって、じゃあ「記録する」ってなんだろう、と次は考える。

私が運営しているウェブマガジン、mono.coto Japanは、海外から来る観光客に日本の日常や文化を紹介するという目的ともうひとつ、特に日本語版では「日常を記録してゆく」というのがある。日々生きていると手の指の隙間からこぼれ落ちていくような、そんなささやかな日常を記録していきたいなと思っているのは、その先に「多様性の積み重ね」があるはずだと漠然と思っているからなのだけれど、まだうまく言語化できていなくて、点と点があるにはあるけどまだうまくつながっていない、という感じなのだ。

書いているあいだに「記録する」とは何か、なにかひらめくといいなと思ったんだけど、どうやらそうでもないらしい。これはあたためておくべき、付き合っていくべき問いなのかもしれないなあ、と思いながら美術展を振り返る。

私はいわゆるアートの「意味不明さ」に放り込まれるのがけっこう好きで、というのも、つくり手側が意図している、していないに関わらず、何かしらの問いが自分の中に生まれるからだ。答えが提示されているよりも、問いが生まれる方が、もやもやはするけれどより多くの鑑賞者を内包する作品になっているというか、自分がその問いと共に変わっていく契機となるというか、次へと開けているなあと、その「オープンさ」にほっとしたりするから。

それでは、また。

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