“美しい”ものが好き
書きたいことというのは、夜歯を磨いているあいだとか、信号を待っているあいだとか、電車に乗り込もうとしているあいだとか、そんな日々のなんでもない時間に浮かんでくる。逆にnoteを開いて、さー今日も書くかあ、とパソコンに向かうととたんに出てこなかったりする。不思議なものだ。
これって何かに似てるなあ、と思ったんだけど、ずっとずっと欲しかったのにいざ手にするととたんに欲しくなくなるとか、待ちわびていた恋人が現れたとたんひとりになりたいとか、そういうのに似ているのかも。いや、違うか?
というわけで今日は下書きの中にタイトルだけ眠っているものを引っ張り出してきた。
「美しいものが好き」。
まあ嫌いな人はいないんじゃないかと言えばそうなのだけど、でも「美しいものが好き」と公言する人って出会ったことがない。私自身もそうだけれど、意外に言いにくい台詞である。美というのは「真善美」とも言われるように、人間の最高の理想のひとつというか、それ自体が「正義」みたいなところがあるなあと感じている。「美しいものこそ正義」というのは、美しくないものを排除しちゃうというか。でも毎日生きていて美しいもの・ことばかりじゃないのは当たり前すぎるほど当たり前で。
でも、描写の美しい一文に触れたとき、映画の映像美にはっとさせられたとき、よくわからないアート作品をじっと見つめていてじわじわと感じるものがあったとき。私はやっぱり「美しいものが好きだなあ」と、しみじみと味わっていることに気づく。「美しいもの」が、心にじんわりと染み渡って、指先まであったかくなるあの感覚が好きなんだ、きっと。
でもそれは、パッと見てきれいとか、誰もが見て美しいとか、そういうものじゃなくていい。どうでもいいような、見過ごされてしまうような日常のワンシーンや一文、ワンカットに、どれだけ「美」を見いだせるかということなのだということ。
それを言葉にして自覚するようになるまでは、意外に時間がかかったような気がする。
大学時代はごりっごりの文学部にいたこともあって、個人的な4年間の目標は「感受性を豊かにする」ということだった。とはいえそのときは感受性ってなんぞや、という感じで、それを言語化することはできなかった。
でも今振り返ると、それは「一見美しくないものの中に、ささいなものの中にどれだけ美を見いだせるか」ということだったんだなと、腑に落ちる。
「美しいもの」ではなく、「美しさを発見する」という「行為」の中に、「美」そのものが宿る。
それは、今自分がいる環境や自分自身の「生」に対する肯定につながるんだと思う。
だから私は“美しい”ものが好きなんだ。
いや、正確にいうと、「美しさを発見していく」ことが好きなんだ。
これを書くまでもやもやと言語化されていなかったけれど、書いているあいだに少しずつ言葉になっていった。「書く」と「考える」が同時に起きるとき、「話す」と「考える」が同時に起こるときが一番楽しいなあ。
それでは、また。
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