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金魚掬い

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女性の女性による女性のための物語。
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#小説

金魚掬い 第十二話

金魚掬い 第十二話

それから、約半年後。

私と紗菜は、ある村に住んでいた。

夫に別れを切り出したのは、紗菜を追いかけたあの日から、比較的すぐのことだった。すんなりいくと思いきや、意外にも夫は手のひらを返したように私をなだめ始めたが、紗菜の瞳を見たとたん、彼は何も言わなくなった。

今は、紗菜と私の、二人きりだ。

父と母が残してくれたこの別荘と畑を使って生計を立てていくことが楽ではないことは、誰の眼にも明らかだっ

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金魚掬い 第十一話

金魚掬い 第十一話

母の日記は、そこで終わっていた。それは、「日記」というよりも、母の「懺悔録」に近かった。ほとんど全てのページは、私の知らない「菜々美」で埋め尽くされていた。

母はこのノートを、どうするつもりだったのだろうか。「あの世」に持っていきたい、と言っていたが、本当にそうだったのであろうか。

最後の数行は、明らかに私に向けられたものであった。最後の一言が、只々私を哀しくさせた。

それでも、これ

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金魚掬い 第十話

金魚掬い 第十話

菜々美は近頃、以前のような快活さを急速に失っていた。歳のせいもあるはずだが、それでも私はそのことを自分のせいにし、そうして私自身を苦しめていた。

菜々美はそれでも、変わらずよく私の部屋にやってきては私の体調を気遣い、私によく話しかけてくれた。

それでも、ふとした拍子に彼女が黙り込むことが増えた。そのようなとき、私はたまらなく不安になった。どうしたの、と尋ねても、勿論笑顔で何でもない、と答える。

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金魚掬い 第九話

金魚掬い 第九話

「…お父さんは」と夕食中、珍しく紗菜が話しかけてきた。

「今日も、遅くなるんだって」と私は何でもないかのように答えた。

わかりきっていたかのように、紗菜は再び黙り込んでしまった。

ふいに、紗菜がこちらを見上げた。その透明な、何も映していないが故にこちらを見透かしていそうな瞳に、私はふいに身体の奥底から這い上がってくる寒気を感じた。

紗菜が、口を開きかける。

止めたかった。その

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金魚掬い 第八話

金魚掬い 第八話

菜々美は私の心配を余所に、すくすくと育っていった。もうすっかり娘らしくなてもよい歳になっても、私の前では少女のようなあどけなさをいつも醸し出していた。それが私に対する気遣いから来るものだということに、私は長い間気付かなかったのであった。

その頃、菜々美は学校から帰るとまず私の部屋にやってきては、その日に起こったことを楽しげに話してくれるのであった。

冬は編み物をしながら、紅茶を片手に話す

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金魚掬い 第七話

金魚掬い 第七話

電話の硬い音で、ふと我に帰る。特に急ぎもせず受話器を取ると、案の定、それは夫からであった。

「もしもし、俺だけど……」そう言う夫の声は、何粒かの砂を含んだような声であった。

「うん」と返事をしたすぐ後に、夫は畳み掛けるように言う。

「今日も仕事で遅くなるから、先寝てて」と、今や聞き慣れた台詞を、一字一句変えずに彼は吐いた。

「わかった、お疲れ様……無理しないでね」

「ありがとう、じゃあ…

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金魚掬い 第六話

金魚掬い 第六話

一度だけ、菜々美が駄駄をこねたことがある。あの子が小学校に上がってからのことだ。

その数日間、私は体調を崩し床に臥せっていた。少し開け放たれた窓から、新緑の匂いが風とともに運ばれてきた。

私にとっては床から眺める窓の形に切り取られた景色が、外の世界の全てであった。

外の匂いを嗅いでいるうちに、ふと私はお腹のあたりから突きあがってくるような衝動に駆られた。少し熱っぽい身体が尚一層火照ったように

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金魚掬い 第五話

金魚掬い 第五話

紗菜はこの頃、滅法口数が少なくなった。十六歳、という歳も勿論関係しているのだろう。

しかし、ただ年齢のせいだけにしてはいけない何かが、そこにはあった。

彼女は口をきかないどころか、私と目を合わそうともしなくなった。時々しつこいくらいに紗菜、と呼ぶと、彼女はふいにこちらを向いた。

紗菜の真っ直ぐな瞳とぶつかる。

その瞳は怖いくらいに透き通っていた。私の胸の内を見透かした上で、尚私を責めている

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金魚掬い 第四話

金魚掬い 第四話

菜々美は、いい子すぎた。それが私を、不安にさせた。

元々、聞き分けのよい子供だったのは確かだが、あの日―夏祭りの日―以来、菜々美は一層「お利口さん」になってしまった。

菜々美は本当に、あの日の出来事を忘れてしまったのだろうか。あの無垢な瞳が嘘をついているとは、とても思えなかった。思いたくもなかった。

あのとき、聞いてさえすれば。

そうすれば、今こうして書き記していることも、なかったのかもし

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金魚掬い 第三話

金魚掬い 第三話

がちゃがちゃ、と玄関から音がして、私は慌てて手の中のページを繰るのをやめた。そのまま閉じて、引き出しの中に仕舞う。

もうこんな時間か、と思いながら私は玄関に向かった。

「おかえり」

「ただいま」と娘は言った。少し、疲れているようだ。

「何か飲む」

「いいよ……自分でやるから」

そう言って、ぺたぺた音を響かせながら紗菜はぱたんとドアを閉めた。

手持ち無沙汰になった自分が、少しばかり憎か

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金魚掬い 第二話(4)

金魚掬い 第二話(4)

…次の日の朝階下に赴くと、菜々美は既に起きていた。一瞬胸が乾いた音を立てたけれど、声色を変えることなく菜々美に話しかけることができた。

「菜々美、おはよう。早いわね」そう声をかけると、椅子に座った菜々美はくるっとこちらを振り向いた。その顔はいつもと変わらないであろう笑みを浮かべていた。菜々美の表情からは、私に対する感情は読み取れなかった。

「おはよう、お母さん。今日は、起きてきて大丈夫なの」

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金魚掬い 第二話(3)

金魚掬い 第二話(3)

暫くすると、扉をたたく音がした。一瞬胸が締めつけられたけれど、音の位置であの子でないことがわかった。どうぞ、と言うと、美代子さんが顔を覗かせる。

部屋の中に静々と入ってきた彼女は、私と目を合わせようとはしなかった。それが軽蔑からくるものではないということに気付き、私も目を伏せていた。

黙って床に鏤められた金魚を拾い集め、床を拭く彼女を、黙って私も見ていた。

「お身体は、如何ですか」

「ええ

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金魚掬い 第二話(2)

金魚掬い 第二話(2)

……がちゃがちゃ、と音がして、そのすぐ後にただいま、と言う菜々美の声が響く。その声は、夏祭り特有の華やかな色合いをしていた。

とんとん、という小さな足の音が、近づいてくる。「走ってはいけませんよ」という美代子さんの声にも、負けじと響く。

扉が、乾いた音を立てる。菜々美が声を発する前に、私はどうぞ、と言った。がちゃり、と音を立て、菜々美が顔を覗かせる。弾けるような笑みが、小さな身体から発せられて

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金魚掬い 第二話(1)

金魚掬い 第二話(1)

夏が近づくと、滅法体力の方は衰える。その日も余りの暑さに、只々閉口していた。

菜々美は夏祭りを楽しみにしていた。「お母さん、絶対一緒に行きましょ」あんなに弾けるような笑顔を向けてくれていたのに、行けない旨を伝えるとふいにその瞳が揺らいだ。

でも、さすがだ。一旦下を向いたかと思うと、すぐに顔を上げて、こう言った。

「大丈夫、ばあばと言ってくるから」

もうあの子の真ん丸な瞳は、揺らいでいなかっ

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