久しぶりのさようなら。

そうだな、例えるならなんだろう。この空気。いつものガラスに映るような彼女の姿はそこになかった。とてもじゃないけど、僕達は三年もの間、時間を共にしていたとは思えなかった。正確に言えば、二年と半年と数日だ。
彼女はいま、まるで僕をどぶ板を見るような目で射抜き、頑なに和解する意思がないことを示していた。
この空気。重たい。どれくらい重たいかというと、僕はもう彼女を二秒以上見つめていることができない。無言のまま進んでいく道を、引き返す方法を探すよりは如何に安全に切り抜けることができるかを考える方が良さそうだった。

「何も言うことは無いんだけれど。」

彼女は、そういえば喋ることができるんだった。そう気づくほどに、漸くその声を聞いた。きっぱりとまるで、僕の顔を叩くような声色だった。実際に叩かれた方がまだマシに思えた。ちら、と彼女の様子を窺うと、一瞬泣いているように見えた。見えただけだった。
そもそもの話は、僕は寂しがりだったことに始まるのだろうか。彼女が僕に会いたがらなくなったことが先だっただろうか。いや、二年と半年と数日前に、僕がウイスキーを少し飲み過ぎて、付き合おうかと呟いてしまったことが最初だったのかもしれない。もっと言えば、少し顔がかわいいからと言って、あの日彼女の隣に腰を下ろし、その艶のある髪の毛先を見ると枝毛になっていることを愛しいと思ってしまったことが発端だ。

「あなたは何か言いたいことはある?」

そうだ、彼女は話し始めていたんだった。話すというか、僕の首を閉める手に力を込め始めていたんだった。少し遠くに聞こえるのは、誰かが頼んだコーヒーをドリップする音だ。救いは何もなく、そのポトリと落ちていく水滴は、その頼んだ誰かの元に無事届けられるんだろうか。そう思えるだけでも、少しは救われる気分になったりもするが、彼女が面倒くさそうに目の前にあるグラスを手にしてオレンジジュースを飲み干してしまったので、僕はまた退路を断たれた気分だった。
僕は、話したいことも言いたいことも山程あった。正直、彼女を責め立てたい気分でもあった。君がその口で先に誰に何をしたんだ。君が僕に対して背中を向けて寝てばかりになったのはいつだ。君が僕の好物を作ってくれなくなったのはなぜか。君に言いたいことくらい言える空気を持ち出す優しさはないのか。
僕がどれほどに君が脱いだ服の匂いが好きか話したい。僕が君が飲んだグラスを洗うことに幸せを感じるのか訴えたい。僕は君が寝た後、その短く切ってしまった髪の毛を撫でて、またあの枝毛を目にすることをどれほど心待ちにしていたか。切望していたか。心をいっぱいにしながら、まるで噛みちぎられるような感覚に体を浸していたんだよと。
どれもが最早たらればの話ではあったけれど、僕にとっては事実だった。ただ、僕が昨日一緒に寝た女の子の肌が気持ちよかった。酔っぱらいさながらの思考回路だったし、少しだけニキビの跡が目立つのが嫌いじゃなかった。連絡先を聞くのは忘れていた。

「もういいかな。さよならで。」

彼女は引き止められたがっているようにも見えた。引き止めても留まるつもりはないようだったけれど。彼女が何を確認したいのか分からないことに気付いた瞬間、無性に苛ついた。僕がまるで何も考えてないように扱われていることに対して。僕をまるで悪のように見ていることに対して。僕を試していることに対して。もう何時だろうか。僕達の今までは二年と半年と数日だけれど、僕達のここまでは何時間かの応酬に終わるものに過ぎなかった。昨日の女の子は、それこそ何時間もせずに僕の上を通り過ぎるようにしていった。
彼女は伝票を少しだけ見たが、どこまでも僕を見下げたい気持ちからか、そのまま席を外し、そして僕を見ずに店を出て行った。今夜は誰に会って、どんな話をするのだろうか。そのことを考えると不思議と胃のあたりが浮くような感じがして、なんとも言えない気持ち悪さが生まれはしたけれど、寂しさが呆気無いほどに消えることを僕は知っていた。僕は28年という時間を過ごしてきたけれど、久しぶりに感じる鼓動のようなそれは、確かに何度か遭遇していたのだった。

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