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半生を振り返る回

もうすぐ誕生日が来るということと、この1年が人生の過渡期だったので、備忘録的に私の半生を振り返りたいと思い、noteを更新することにした。
ちなみに、長文であることを最初に断っておく。
でも最後まで読んで欲しい。お願い読んで。ね?笑

私の家は、控えめに言って貧乏だった。
祖父母の家は、終戦後に祖父が廃材で建てたトタン屋根の家で、建築途中で建築資材を盗まれたために、資材が足りず、風呂場の脱衣所の天井は1m20cmくらいしかなかったので、いつもしゃがんでお風呂に入っていた。

漫画みたいに本当に斜めに傾いていたし、両側の家に挟まれて風が凌げるために、何とか潰れずに済んでいるというレベルだった。

そこに住む祖父母は典型的な貧困層で、これまた漫画みたいに祖父がアルコール依存症。
出稼ぎ先から仕送りをお願いしてくるほどの真性のポンコツだった。

そんな家で8だか9人だか兄弟で育った父は、学費が工面できずに高校に進学出来なかった。
しかし、運良く地元の企業に採用が決まり、自動車学校で出会った生みの母と結婚して、私と弟を授かった。

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なぜ私が「生みの母」と表現したかというと、私が小学校3年生の時に、両親が離婚してしまったからだ。

ここからは私の思い出になるので、少なからず主観が入ることをあらかじめ断っておく。

小学校3年生のある日、NHKで放映されていた忍たま乱太郎を観ていると、オープニングで流れる「やりたいことやったもん勝ち 青春なら」という歌を聴いて、生みの母が一言

「本当よね、本当にそう思う」と言った。

そしてその数日後、母は青春を取り戻すべく、旅の役者とやったもん勝ちし、半ば駆け落ち状態となった。

それから数ヶ月後、両親の離婚が決まり、私たち兄弟は、「父と母どちらに付いていくのか決める」という難題を突きつけられることとなる。

当時4歳だったうちの弟は、当然母を選び、私も気持ちとしては母に付いていきたかったが、それではどこかフェアじゃないという気持ちが心の中に渦巻き、旅の役者とも上手くやっていける気がしなかったので、結果、父親を選んだ。

そうして私は若干9歳にして父親と2人の生活が始まる。・・・はずだった。

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なぜ「ハズ」だったかというと、9歳なりにも、これから迎える生活が過酷なものになることは容易に想像がついたので、新メンバーを迎えることにしたからだ。

9歳の女の子を、いきなり男手一つで育てるのは無理があると思った。
初潮や反抗期を、父親と2人だけで乗り越えられる算段が、当時9歳の私にはどうしてもつかなかったのだ。

そこで、以前からうちの家に出入りしていた、父と生みの母の共通の友人である女性、当時29歳のTさんに目をつけた。
私はTさんのことが人として嫌いではなかったし、なによりTさんが以前、私に「ちーちゃんのお父さんは素敵な人だね、私もこんな人と結婚したいな」と私に言っていたのを覚えていた。
直感的に、Tさんは父に少なからず好意を寄せているのだろうと幼心に思っていた。

彼女と3人で新しい家庭を作ろうと思った。
なぜなら私には「母親」が必要なのだから。

ということで、生みの母に別れを告げ、父と2人で新居に移る道中、私が最初に発した言葉は、「Tさんも呼んでご飯を食べに行こう」だった。

私の計画はすんなりと進み、2年後にはTさんは私の継母となった。
その間の2年間は、私は最初に述べた祖父母の家に半ば住み込み状態で暮らしていた。

アルコール問題を抱えていた祖父は、酷いときには夜な夜な祖母に嫉妬妄想を抱き、浮気をしていると叱咤した。
ある日の朝方、夜通し叱咤された祖母が、上下に揺れ出した。
祖父は、そんな祖母を物差しで叩いた。
その瞬間、祖母が後ろにズドンと音を立てて倒れ、それきり意識がなくなってしまったのだ。

祖父は最初、タヌキ寝入りをしていると言って祖母の口の中に七味唐辛子を入れたりしていたが、次第に様子がおかしいことに気付き、私に救急車を呼ぶように言った。

私が救急車を呼んでいる最中、祖父は、下半身はステテコのまま、Yシャツに着替えて一張羅の蝶ネクタイを締めようとしていた。

「おじいちゃん!救急車に乗るのに蝶ネクタイはおかしいよ!!」という私の声などモノともせず、祖父はハンチング帽まで被って、祖母に付き添って救急車に乗り込んでいった。

取り残された私は父に連絡し、当然親族一同が集まって深刻な会議が開かれた。
祖母は睡眠薬を多量服薬していたが、命に別状はなかった。
結果、祖父は二度とお酒を飲まないという約束を取り付けられることとなり、ひとまず放免となった。

当然、お酒は死ぬまでこっそり飲んでいたが。

・・・少し話が横道に逸れたが、両親の離婚から2年後、小学5年生の時に、Tさんは私の計画通り私の継母となった。

とても頭が良く、しっかりものの継母は、毎日無添加のお弁当を作り、私が何か相談すると、的確な返答をくれた。

愛情らしきものも、貰ったように思う。

詳しく書くと長くなるので割愛するが、今振り返ると「らしきもの」であって、「愛情」ではなかったのだけれども。

継母は、長いこと私に生みの母がいかに悪い人間だったかを説いていた。
私もそれに並んで、いかに生みの母親が嫌いかを常々口にしていた。

当時、父が私を叱るときの口癖が「あっち(母親のもと)に行かせるぞ」だったほどに、私は率先して生みの母の事を悪く言っていた。

しかし、実は2回だけ、離婚後、こっそり母親に会いに行ったことがある。
1度目は離婚直後。
私を見た生みの母は、開口一番に「何しに来たの?顔も見たくない、二度と来るな」と言った。
2度目は中学生の時。
野球部だった弟の試合をこっそり観に行ったときに、生みの母とすれ違った。
生みの母は、私が自分の娘であることに気付かず、「こんにちは」とにこやかに挨拶をしてくれた。

そんなこんなで、やや屈折した気持ちを抱きながら受験を迎え、どこかに逃げ出したい気持ちや、自分の常識が人とはややズレているということに常々違和感を覚えていた私は、英語を勉強して他の国の人の考えを取り入れてみたいという気持ちが芽生えていた。

私立の英語科を受験したいと申し出たが、経済的に私立高校にも大学にも行かせられないとの返答があった。
高校を卒業したら就職して欲しいとの継母の意向もあり、私は地元の商業高校に進学する道を選んだ。

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基本的に安直であんぽんたんな私は、世界に出る道が絶たれた今、人生を変えるには玉の輿に乗るしかないと思い、高校3年間、勉強は一切しないと決めて、本当に3年間ほとんど勉強をしなかった。

というか、2年生からは学校にもほとんど行かなかった。

正確には、図書室登校をしていた。

科学や数学を勉強するくらいなら、本をたくさん読んで会話の幅を広げたり、引き出しを増やした方が玉の輿に乗れる可能性が上がると、当時の私は本気で思っていた。

そうなると当然、試験の点数は限りなく0に近づいたり、時には0だったりし、卒業が危ぶまれた。
そんな時、私の噂をどこからか聞きつけた小学校6年生時の担任だった島村先生から連絡が入った。

6年ぶりに小学校を訪ねると、先生から一言「お前はやれば出来るんだから、簡単に人生を諦めるな」と言われた。
その日から、毎日放課後は小学校に登校し、先生に勉強を教えて貰って、最下位ではあったが、何とか高校を卒業することができた。

先生とは今でも連絡を取り合っている。

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そんな私は、それからも人生の岐路に立たされる度に、天から降りて来たんじゃないかと思うような有り難い人に出会い、もうダメだと思う度に、「諦めるな」「出来る」と鼓舞して頂き、横道に逸れたり戻ったりしながら、なんとか今日を迎えている。

そして数年前、父と継母が離婚した。
本当の母のように想っていたが、最後は「もう連絡してこないで欲しい。もう終わりにしたい」と言われ、関係が途切れてしまった。

しかし、悪いことばかりではない。
そのことをきっかけに、今まで遠慮していた生みの母との関係が再スタートしたのだ。
生みの母は控えめに言ってかなり個性的だが、母なりに私との時間を埋めようとしているのが見て取れる。
私はそれを、控えめに言ってかなり嬉しく思っている。

それに、元々誰に頼まれたわけでもないのだけれど、本当は大好きな誰かのことを悪く言う必要も、そんな話を聞く必要もなくなった。

出ていくものがあれば、入ってくるものもあるのだ。

さて、ここまで散々私の不幸話のようなことをつらつらと述べてしまったが、私が言いたいのは、「私がこんなに不幸だった」ということではない。

「一生懸命に生きている人たちに囲まれて、私は幸せだった」ということが言いたいのだ。

忍たま乱太郎を観て旅の役者と駆け落ちした生みの母。
血の繋がらない私を一生懸命に育ててくれた継母。
不器用ながら私を愛して、引き取ってくれた父。
祖母が救急車で運ばれるときに蝶ネクタイを締める祖父。
ガチアル中(あえてアル中と言わせていただく)に共依存しながらも、生涯連れ添って先日天国に旅立った祖母。

みんなガムシャラに生きている。

おかげさまで今、私は千尋の谷に突き落とされても何とか登ってこられるだけのサバイバル能力を身に付けることが出来ているし、きつい言葉の裏には、時として深い愛情や、その人自身の葛藤が隠されていることも、経験を通して知ることができた。


何より、人に恵まれている。


もちろん、私も一族の例に漏れず個性的なことは否めないので、良く思われないことも多いのだが。

ガムシャラに我を通しながら生きる人間の心の機微は、本当に面白い。

祖母には申し訳ないが、救急車到着までに、アルコールに震える手で蝶ネクタイを一生懸命に締める祖父の顔は、本当に滑稽で面白かった。

思わず「誰にその蝶ネクタイ見せるねん」と心の中で突っ込んでしまった。

旅役者にフォーリンラブしていた生みの母は、当時、私も含め周囲のことなど本当にどうでもよさそうで、少女のように可愛かった。

人はみな、一生懸命に生きているのだと思うと、どんな人でも愛おしく見えてくる。

今、そんな風に思えているのは、

「許せないことも、自分のために全て許せ」と教えてくれた私の恩師や、友人、職場の人、時に今まで出会った恋人、心を寄せる人のおかげだ。


みんなのおかげで、私は自分の人生が愛おしく思えている。
私の座右の銘である「面白き事もなき世を面白く 住みなしものは心なりけり」を少なからず実行できているのだ。

もちろん、たまには「住みなすもの全て悪なり」と思う日もあるが。

さて、最後に、私は紆余曲折を経て自分のお金で成人後に進学し、現在は医学研究科博士課程の幽霊大学院生なのだが、進学したのは、知識と学歴が心身共に身を助けると思ったのと同時に、中卒の父親の無念を晴らすためでもあった。

娘の私が大学院まで行けば、父親が少なからず感じてきたであろう学歴による肩身の狭さも多少は払拭されるのではないかと思ったからだ。

最近、ある人に、私が今まで感じてきたことを父親に伝えてみてはどうかという助言をいただき、ここに長々と書いたことに+α私の感情を加えて父親に伝えてみた。

父親は、「お前がずっと気を遣って生活していたことは知っていた。これからは自分のことを考えて幸せになって欲しい。ありがとう。お父さんは、自分の人生に誇りを持っているよ。」と言ってくれた。


なぜこんな終盤まで書き忘れていたのか不思議なくらい、私は父が大好きだ。

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人生は時に辛く苦しいし、所詮は私の人生など地球の熱循環システムの一部だと投げやりになることもあるが、総じて言うと、私は本当に幸せだと思う。

私の大切な人たちが、人間が、地球の歴史でみるとほんの一瞬に過ぎない数十年を、これでもかと一生懸命に生きる姿が見られるからだ。

一生懸命に生きるということは、時にコントであり漫才だと思う。

一生懸命でガムシャラなとき、人は例外なく滑稽で格好悪く、最高に面白い。

これは、私なりの最上級の敬意の表現である。

だから私は、そんな人生の一部を切り取って伝えるお笑いが好きだ。

演芸集団FECのタレント部門に所属させていただいている理由でもある。

私も負けないように、ガムシャラに生きなくちゃね。
長々と書いたけど、これ、誰が読むんだろう(笑)

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とりあえず、次の歳も幸せでありますように。合掌。




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