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写真美術館を制覇

去る10月1日は都民の日だった。

博物館やら美術館の一部が入場無料になるという、僕のような下等遊民にとっては最高の一日だが、幼少のころはどうやって過ごしていたのか、あんまり記憶にない。少なくとも、いま確認できる入場無料リストの中に思い出深いスポットは見て取れなかった。

大学1年のときだったか。学校帰りにふと近くの動物園が無料で入れることに気づき、その場のノリで友人2名と回ったのが懐かしい。
動物園だってもちろん好きなのだけども、さすがに一人で行く感じはしないので、ここ数年は無沙汰が続いている。

で、その数年はどこに赴いているかというと、恵比寿にある東京都写真美術館が定番となりつつある。

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この美術館、都民の日でなくてもたびたび足を運んでいて、僕の中では「オールタイムベスト」と言っていいくらい安定した質の展示を催しているのである。
(だからここでも紹介したつもりになっていたが、いま確認したところ、原稿はボツ記事フォルダに放り込まれていた)

現在開催中の展示は3つ。


1つ目はコレクション展。「琉球弧の写真」と題され、琉球にルーツを持つ7人の写真家による60年代~70年代くらいの琉球の写真が並んでいた。

この頃の沖縄は、米軍による墜落事故や毒ガス流出事件が発生しており、ちょうどアメリカ排除の気運が最高潮に達した時期であろうと思う。

1972年に返還されるまで――いや正確には今をもってなお解決していない問題はたくさんあるのだが――沖縄は、他の地域にはない独自の問題に対峙し続けてきたことになるだろう。これについて、部外者である僕がクドクド意見を述べるのは適切ではないと思っている。

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ここに展示された写真群は、そうした移ろいゆく沖縄の風景を今に伝えているわけで、古くからの伝統とか庶民の暮らしとかいう文脈でももちろん貴重な資料なのだが、返還されたあとも残したい「琉球」の姿を訴えているようにも感じられる。

現に、闘争の写真などは迫力に満ちている一方で、南国に暮らす人々の姿もまた非常に生き生きと映し出されているのだった。

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2つ目の展示は「石元泰博写真展 生命体としての都市」。こちらは撮影禁止だった(むしろできる方がすごい)ので、あっさり説明したい。

アメリカと東京を行き来し、それぞれの都市の姿を見つめた写真家、というとだいたい展覧会趣旨を紹介できているか。

1960年あたりの成長期にあるシカゴと、60-80年代あたりの東京の写真が展示されていたが、前記の琉球の写真群とは違って、画面の構図を追い求めている印象が強い。これは『桂離宮』にも見て取れる傾向で、全編モノクロで撮影されているというのも感想に影響しているように思う。

で、気になったのは「多重露光」シリーズ。ぱっと見では何を撮ったのかわからない画面で、原色がさまざまに交差している写真である。こういう試みじたいは知っていたし、ぶっちゃけよくわかんないなと思っていたのだが、改めてじっくり見てみると、意図がつかめかけてきた気がする。

たとえば立体芸術では、材質に何を選ぶかは作品にとって特に重要な要素となる。木、鉄、紙、粘土などなど、作品から受ける印象が大きく変わってくるのは当然だろう。

で、多重露光の話に戻るが、これは被写体を材質としてとらえ、それに撮影という行為を通じて着色する試みではないかという気がした。つまり物体をただ写すというのではなく、物体の質感を使ってフィルムに色を塗るというような作業ではないか、という感想である。

まあ、もちろん写真について素人なので見当違いなことを言っているかもしれないが、発想として発見ではあった。同じように「刻」シリーズにも発見はあったのだが、写真を載せないことには伝わりにくいので割愛する。


で3つ目に見たのが「exonemo」というもので、90年代以降に急激に一般化したパソコン技術を用いた芸術表現が目白押しであった。

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いまでこそ、このテのデジタルな芸術はそんなに珍しくもないが、展示の一番古いものが1996年製作であることからすると、exonemoはその走りと思ってよさそうだ。

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展示室はかなり渾沌としていて、ともすればサイケな雰囲気が僕には面白かった。

たとえば《断末魔ウス》という展示は、コンピュータを操作するときのマウスに電ノコやドリルで物理的ダメージを与え、そのときにマウスポインタが描く軌道を記録するというもの。アプリケーションを起動するとその動きが実際に再現されるわけで、ある意味で死の瞬間をデジタルに再現していると言える試みである。

それから《HEAVY BODY PAINT》というのも面白かった。ディスプレイに直接絵の具が塗り付けられ、塗り残された画面に映るペンキ缶がゆらゆらと立体的に見えるのである。

画一的とも思えるデジタル表現でも、可能性が無限であることを痛感させられる。



一般に写真というと、自然に生じた場面をとらえるべきものという印象が強いのではないだろうか。しかし自分の撮りたいものを撮りたい位置に配し、徹底的に画面を構成しつくした撮影も、芸術としてはありなのである。

視野の狭い僕にそれを気づかせてくれたのが、他でもない写真美術館なのであった。


今月中旬から開催される「写真新世紀」は、毎年やっているフォトコンテストで、写真を使った表現として最先端の試みを見ることのできる楽しい展示だ。

興味のある方は是非お運びください。僕は絶対行きます。

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