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プロローグ

小学校のとき、あれは、5年生の時だろうか。どういう科目の授業だったか、それは何も覚えていないのだけれど、人生について、おそらく生まれて初めて考えるきっかけになった出来事がある。
教卓に立っているのは髭面の、色眼鏡をかけた中年教師だった。
「よく聞け。人はみんな、沢山の種を抱えて生まれてくる。」

三谷先生。教師らしからぬその風貌、それに加えて変なこだわりを持っている、と生徒たちからは思われていたに違いないであろう。
長谷部自身もそう思っていた。なんというか、そう、一言で言えば怒るポイントが読めないのである。
一度怒ると、とにかく怖い。しかもそれが誰も読めないタイミングで襲いかかってくるので、子供たちは皆、地雷を踏まないように必死だった。とりわけ、普段怒られることのないような優秀な子は、きっと彼を嫌いだったに違いない。
ある体育の授業では、手を抜いたと言いがかり(少なくとも本人はそう思っていた)をつけられ、バスケットボールのコートから追い出され、見学になってしまった。その瞬間からクラスの全員が本気でボールを追うようになったものである。
しかし褒められる瞬間は、とても嬉しいものがあった。誰も褒めやしないような、そんな小さな行動を、いきなり手放しで賞賛するのだ。長谷部もよく怒られた。憎らしい担任であった。だが、三谷に褒められた瞬間は、なんだかんだ嬉しくなってしまうのだから、不思議なものである。
もしかすると、子供だったからなのかもしれない。今もし褒められても、素直に受け取れないのかもしれない。そう考えると、子供ってやつは効率的な生き方である。

そんな子供たちは、真剣な顔をして話す三谷を、まじまじと見つめていた。
「色んな可能性を持った種をもって生まれるんだ。その種を頑張って育てていくものもいれば、ほうっておいて、からしてしまう者もいる。」
三谷は両手を前につきだし、手のひらを見て続けた。
「それは、野球選手の種かもしれないし、お医者さんの種かもしれない。それらを俺たちは生まれた瞬間から育てていくんだ。でもそれはな、一つ、また一つ、年を重ねるごとに手のひらからこぼれ落ちていく。」
クラスの皆は静かに三谷の話を聞いている。
「この才能の種は、お前たちの手から、すでにどんどん落ちていってるぞ。それに、大事に育てないと枯れてしまうかもしれない。とにかく育てるのに手間がかかるんだ。そして最後には・・一つだけ、一つだけ残って、花を咲かす。それが大人になったお前たちの姿だ。」
そう言うと三谷は手のひらから長谷部たちに目を移した。
「だから、みんなは立派な花が咲くように、頑張って好きな種を育ててください。」
そう締めくくると、三谷は黒板を消し始めた。そんなとき、だれかの声が聞こえた。
「先生の種は、どうなったの?」
三谷はこちらを振り返り、
「俺か?俺はな―――」

ジリリリリリリリリリ
鳴り響く目覚まし時計。いつから鳴っていたのだろう。長谷部はなかなか時計の場所がつかめず、布団の上をジタバタしていた。午前6時15分。もうかれこれ15分もこの大音量が響いていたのか・・・そう思うとため息が出る。長谷部は朝の支度をし始めた。
・・・小学生のころの夢か。妙に生々しいものだな、寝ぼけた目をこすりながら、スーツの上着に細めの腕を通す長谷部は、朝食も取ることなく、アパートの一室を後にした。

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