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第1章 サラリーマン

駅まで歩いているその途中、雨が降りだした。降水確率30%だったにもかかわらず、だ。
「くそ、ついてねえな。」
長谷部は小走りで駅へ向かう。駅前のアズナスで新聞とパン、ジュースを購入すると、ホームで電車を待ちながら、食べる。毎日の日課である。長谷部は証券会社に入社してから研修中を除いて1年間、毎日ずっとこんな朝を過ごしている。電車が来る、乗り込む、中を見渡す・・やはり今日も座れる隙間はない。ドアにもたれかかり、新聞を読み始める。機械的に行われる一連の動作。彼の一日の始まりは、もう決まりきったものとなっている。そう、朝になればニワトリが鳴き、夕方になれば日が沈むような、そんな自然サイクルの一部と化しつつあった。
電車の乗り換えもこなし、いつもの2両目でひたすら席が空くのを待つ。うまくいけば次の次の駅から座れるのだ。窓の外に目を移す。朝の街を車が走っている。朝から疲れた顔で運転している中年男性。手段は違えど、きっと彼もまた、今から始まる一日に、なんの関心もないのであろう。長谷部はそう思い、ニヤリとした。まだ会社にもついていないのに、いや、着いてすらいないからこそ、疲れているのかもしれない。眠気が長谷部を襲う。わかっている。ここで少しでも寝てしまうことがあれば、到着したとき、本気で降りるのが億劫になってしまう事なんて、わかっている、わかっているのだが・・・寝てしまう。通勤なんてそういうものだ。案の定、地獄を味わった長谷部は1時間半もの小旅行を経て、ようやく職場へと到着したのであった。

「おはようございますー・・。」
長谷部の挨拶は暗い。あまりに暗くみえるのか、それを指摘する上司もいる。
おはよう、と数人の声が返ってくる。挨拶されるだけでため息が出てくるくらいなものなので、長谷部自身、この仕事を長く続ける気など、全くもってない。じゃあこれからどうするのか――そう聞かれてしまうと困ってしまうわけなのだが。
「おい、長谷部。」
上司の柴田が声をかけてきた。柴田は仕事のできる若手、30歳ほどの、まあ長谷部の教育係みたいなものだ。
「長谷部。」
聞こえていないふりをしようとするも、二度呼ばれる。そりゃそうだ。長谷部は朝から冷め切っていた。
「なんですか。」
「今日の行動予定聞かせてもらおうか?ん?」
このやりとりもルーチン業務化している。今年に入ってからずっとだ。もう4月も近いというのに、
入社して1年が経とうというのに、風当たりはきつくなるばかりだった。毎日細かく行動予定を聞かれ、答えれば、そんな甘い計画はダメだ、と柴田自身の立てた計画を押し付けられる。それならはじめから全て命令すればいいだろ、と思うのが普通の人間だ。
長谷部は未だに信用されていなかった。外へ営業に出れば、ひっきりなしに支店から電話がかかってくる。長谷部は思う。ここまで柴田が長谷部にうるさく言うのも、おそらく長谷部が外回り営業で成果が出ないことを、柴田は支店長をはじめとした上の連中からこっぴどく問い詰められているからではないか。どうなってるんだあの新人は、と。
しかし追い込まれているのは長谷部だけではなかった。営業3課の香西課長、彼は課長でありながら、支店全員の目の前で徹底的に吊るし上げられている。弱肉強食、ノルマを達成できない社員というものは、いつの時代も肩身が狭いのである。怒鳴り散らし個室に閉じ込め、辞職さえ促す。
そんな世界はドラマや昭和だけのものと長谷部は思っていたのだが、この21世紀にも存在した。
幸いなことに、本日の支店長の怒りの矛先は、香西課長に向かっているようで、長谷部はその陰に隠れて、外回りへと、支店からの脱出を試みようとしていた。支店長はご立腹だ。
「香西課長、あんたねえ、部下の一人もマネジメントできてないんですけど?課長席に座って何してるんですか?ん?まあ、部下より数字できてなきゃ何も言えんわな。・・・黙ってないで何とか言えや!あぁ!?」
バーンッ。始まった。支店長は机を大げさに叩き、課長は縮む。ここに来てからというもの何度この光景を見たことか。
「すみません、やります、やるんで・・。」
175cmはあるはずの香西課長の背中は、とても小さく見える。
「いってきまーす・・・。」
長谷部はそんな課長を気の毒に思いながら、営業へ出かけるのであった。

長谷部は公園での昼寝もそこそこに、高級住宅街をひたすら歩いていた。午後になれば香西課長も公園で時間を潰すことを知っているからだ。長谷部は数少ない見込みのあるお金持ち達に飛び込み営業をかけてみることにした。まあ、最近ではそれも居留守を使われるか、よくてインターホン越しに追い返されるか、なのだが。まともに富裕層と喋ったことなんて、ここ1週間全くないのである。ひたすら無視され続けて20件目くらいであろうか、綺麗に手入れされた芝生を持った、レンガ造りの2階建て、いかにも、な邸宅で、白い愛車のクラウンを洗車している年老いた白髪の男性を捕まえた。
「あのー、私、ただいまソフトバンクから出ました利率1.45%の社債のご案内でこちらの地域を回らせていただいているのですけれどもー・・。」
何度吐いたであろうセリフを並べ立て、気持ちのこもらぬ営業トークをする長谷部。どうせ門前払いだろう、と諦めムードだったが、
「おお、1.45か、高いな。何年ものだ?」
まさか食いついてくるとは思わなかったので、言葉に詰まってしまった長谷部は、慌てて、チラシをカバンから出して、説明を続ける。
車の話等、世間話も交えて20分はたったであろうか、これはもしかして、と長谷部は期待していたのだが、不意に老人の表情が豹変した。
「ああ、あんたやっぱりダメだ。そんな安いスーツ着てボロい靴履いた営業マンに金出す気にならねえよ。」
うそだろ?ここまできてそれかよ。なんで今までいわなかったんだよ、と、長谷部は腹が立ってきた。
「もう帰った帰った。残念だけどあんたね、ダメ、全然。あんた自身がお金持ってなさそうだもん。そんな身なりでここら辺歩かないほうがいいよ。」
長谷部が言い返す間もなく、老人は豪邸の中へと、去っていった。
長谷部は悔しかった。契約を逃したからではない。肌で感じるこの格差、圧倒的な成功者の前にただただ、立ち尽くすしかなかった自分、何も口から言葉が出てこなかった自分が、惨めで、悔しかったのである。
トボトボと、支店へ戻ろうかと思ったその時、長谷部の携帯電話が鳴った。知らない番号だ。
「・・・もしもし。」
長谷部は知らない相手にもかかわらず、とても暗い声で応答した。もしもし、と言ったあとに、これはさすがにやりすぎたか、と思い、言い直そうとしたその時、
「あぁ長谷部!?オレだよ俺!」
なんだ、詐欺か。長谷部は切ろうとした。
「俺はおばあちゃんじゃありません、さよなら。」
冷め切っている長谷部に、電話主は慌てている。
「何言ってんだよ!オレだよ!岡!」
「岡・・?え、小学校の時の?」
なんと電話をかけてきたのは、小5で同じクラスだった岡一萌だった。驚いた長谷部は思わず携帯電話を右手に持ち変える。
「おう、長谷部今何してる?仕事?」
「ああ、まあ、そうだけど・・いきなりどうした?」
「そうか!あのな、今日久しぶりに林と飯食いに行くことになったんだけどよ、長谷部もさそうかって話になってさ!」
林もまた、同じ小学校の旧友である。それにしても、なぜその組み合わせなんだ。長谷部は疑問だった。岡は金持ちのボンボンで、父が貿易関係の会社の社長をしている、派手な遊び好き男なのだが、林はというと、家が厳しく、本人も真面目な性格で、小学校時代はよく岡と長谷部を目の敵にしていたような、典型的な学級委員長タイプの女である。水と油じゃないか。
「んー、何時から?」
気乗りしないような声を出してみたものの、長谷部は内心ちょっと楽しみであった。今までなかった変な組み合わせってものは、見るだけで価値があるというものだ。
「仕事終わったらとりあえず地元で!」
「地元か、わかった、また着くとき分かったら連絡する。」
地元かよ・・そう思った長谷部だったが、それは出さずに了解した。というのも、長谷部は大学卒業とともに、隣町のアパートへと引っ越していたからである。
別に地元を離れなくても今の職場には通えた。しかし、地元の実家に20年もいたら、なぜだか、新しい環境に身をおかなければいけないような、そんな気に駆られ、引っ越すことを決めたのだ。
しかしながら、今では若干後悔している。いかんせん無駄に金がかかる。友人や恋人を家によくあげるわけでもない。ただただ、面倒な独り暮らしである。独身貴族とはほど遠い、貯金すらできない新社会人。今の長谷部に先の明るい未来なんて見えていないのであった。
電話を切り、支店へと戻る長谷部。その足取りは、ほんのちょっとだけ、軽かった。

ジャスコという、デパートの4階、寂れたレストラン街で、不機嫌そうな顔をした、若干痩せている、花のない女子高生がアルバイトをしている。
香西望美、彼女は退屈していた。高校では部活に入っているわけでもない。大学へは何もしなくてもそのまま入学することができ、受験勉強も全くする必要もない。いわゆる付属校のエスカレーターというやつだ。特別に家が裕福なわけではない、しかし、バイトで稼いだ金とは別に月3000円のお小遣いがもらえるほどの、そんな家庭だ。
父は仕事で忙しく、母は10個も歳の離れた弟につきっきりで、家に帰っても家族の会話はほとんどない。望美はそれで十分だった。ドライなくらいが丁度良い。干渉されずに済むってものだ。
そう友人にはよく話していた。
「ありがとうございましたー。」
夜9時前、残り2組のうちの一人が出ていったので、食器を片付けに望美は席へ向かった。
4階の喫茶店で働き始めて2年目、ピーク時でも満席になることが決してないこの寂れたサ店は、何も考えず楽に稼ぐにはちょうど良い、そう思って、週4で入っている。店のことは一通り学んで、閉店作業も任されるほどバイトメンバーの中ではこの店について詳しかった。
窓際の席の食器を片付け、テーブルを拭いていると、カラスの鳴き声が聞こえたので、窓の外を見た。カラスの姿は見えない。望美は窓の少ししたを覗き込んだ、すると、カラスは窓の外の、下のほうにある、外付けの非常用と思われる錆び付いた階段に4、5羽集まって話をしていた。それはまるで団地の前で井戸端会議をしている奥様方みたいである。そういえば、あんなところに階段なんてあったっけ?望美は、バイトし始めて2年になるが、始めて知ったのであった。
それにしても、夜なのにカラスの会議かぁ。
「香西さんー、レジよろしくー。」
そんなことを考えていると、望美は店長に呼ばれた。最後の客であった老夫婦が財布を出して待っている。
「はーい、今行きますー。」
適当に返事をし、食器を店長の隣へ積み上げレジへ向かう。
この夕方から夜9時閉店の時間帯は、いつも客が少なく、店長と二人で回していることが多い。
しかし、店長と言っても雇われ店長でただの社員なのだが、風貌だけ見れば、それはそれは田舎町の喫茶店の、ヒゲをはやした粋なオーナーといった感じだ。実際はつまらない中年オヤジなのだが、望美は特に嫌いというわけでもなかった。
「320円のお釣りになります。ありがとうございましたー。」
最後の客が帰り、無言で片付けを始める望美。椅子を机にあげ、軽く掃除をし、ブラインドを下げ、閉店作業を進める。望美にとっては慣れたものだ。彼女は毎日が退屈で仕方がなかった。金を貯めても使うことも特になく、欲しいものも特にない。服をたまに買うくらいか、使うこともないのでどんどん溜まっていく。気がつけば、40万円という、高校生にしては大金が銀行に眠るようになっていた。何が不満ってわけでもない。しかし、退屈なものは退屈なのだ。言い表せない倦怠感が、望美を無気力にさせていた。

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