◇文章の印象、どうなんでしょう

自分の文章が、どんな印象を持たれているのか。やはり気になることがあります。いま書くものと言えば日記か感想の類くらいだけれど、目を通してくださる方の目にはどう映っているのでしょうか。

それと似たような疑問を強く抱いたのは、大学生の頃だったと思います。レポート等で文章を書く機会も多かったですし、まだ小説を書いていた時期でもあります。電車での通学時間や授業の空き時間を活用し、読む本の量も多かった。そして、周囲には書くひとも多かったのです。

そんな中で、「わたしの文章は、どんな特徴を備えているのだろう」と考えるに至ったのは、不思議なことではありません。そもそも、特徴と呼べるものがあるのだろうか。薄っぺらい、言葉の羅列に過ぎないんじゃないだろうか。
そして、「わたしには巧みな文章が書けないな」と妙に絶望したことがあります。大学の講義で「表現すること」を学んでいたことも無関係ではありません。端的に言ってしまえば、自信を失くした。失うような自信が元々あったのかすら覚えていない。

高校までは、ただ好きで書いていたのです。文芸部に原稿を出していましたが、批評しあうことはありませんでした。好きなものを出して、みんなで楽しむ。そういう活動の場だった。
でも大学で表現について学ぶうち、自身の書いたものについて、巧拙を問うようになってしまったのです。「好き」というだけでいられなくなってしまった。書いているときは楽しくても、仕上がったものを読むと拙さが目立つ。課題が浮き彫りになる。自分はヘタクソだという気持ちが強くなる。
そこで、克服することさえ楽しめれば良かったのでしょう。でも、わたしは自分の文章に価値があると思えなくなっていった。

このあたりが、大学を卒業するころには書けなくなっていた理由かもしれません。
そして社会人になると環境が変わり、書くひととの接触が減ったことや、わたし自身の問題もあって、一時は完全に書くことから離れることになってしまいました。

ふたたび書くことに戻ってきた今。自分の文章が上手いか下手か、気にする癖はやはり残っています。読み返したとき、見えない赤ペンで何箇所も修正を加えたりする。用いる言葉が適切でなかったとか、語順が不自然だとか、句読点がぎこちないとか、キリがない。
そうして列挙していく項目を見ていると、わたしは言葉や文章として適切かどうか、そればかり気にしてきたのだなと思い知らされる。だから、自分の書くものが、どういう印象を抱かれるのか想像できない。どういう印象を持たせたいのかも分からない。
やわらかい感じがするとか。透きとおった表現だとか。落ち着いた文章だとか。そういう、上手さ下手さとはまた別の見方。

わたしの文章の印象、どうなんでしょう?