慰霊の日、おばぁにきけなかったこと。

車の調子が悪いので、D社へ予約。

電話の受付担当の方からは、
「2〜3時間ぐらいはお待たせするかと」と事前に言われました。

「ポケットWi-Fiを持ってるから、大丈夫。作業しとこ〜」と思ってたら、圏外やん・・(笑)

届いたばかりのipadのセッティングをやろうと思っていたので、kindleタブレットはおいてきてしまいました。

この時間をどう乗り切ろうと思ったら、noteに何か残しておきたいという気持ちになったので、今日のお昼の気持ちを携帯から書いてみます。
唐突。

行間の調整とかがわからず、読みにくいかもしれませんが、あとでPCから直すと思うので、ばばばと!

—————-

6月23日は「慰霊の日」

沖縄県は、この日を休日にし、正午には黙祷を捧げます。

沖縄の学校では慰霊の日が近くなると、クラスや学年単位、または学校ごとで、必ず平和について考える時間があります。『命(ぬち)どぅ宝』

私は多分、小学校高学年のときに糸満にある平和の礎がある平和祈念公園に行く機会があり、先生から

「親戚で戦争中に亡くなった人はいないか、家族に確認しておくように」と言われたので、母方のおばぁに聞いてメモしました。

2人の名前を書きました。

以前、おばぁの最初の2人の子供が亡くなったと言う話しを聞いたことがあります。

でも今、
その名前の2人が、おばぁの子供なのか、どういう関係性だったのか覚えていません。よし、母にライン!

話しを戻すと、先生達が名前を聞くようにと課題を出したのは、
平和の礎には、戦争で亡くなられた人の名前が刻まれた刻銘碑があり、名前を探したり、刻銘碑の上に白紙を載せ鉛筆で擦り出すと、白紙に名前が浮かびあがる作業(適切な表現がわからないのですが、伝わりますように)

をするためでした。

当日、小学生だった私は本来の目的であるはずの「平和について考える」というより、ゲーム感覚で「名前見つけられた、イェイ」という方が大きかったと思います。

ともあれ、先生に言われた通りに
紙を刻銘碑に重ねて、鉛筆で一連の作業をし、その紙を持ち帰りました。

後日、おばぁの家に持ってきその紙を見せたところ、おばぁは褒めてくれながら、泣き始めました。正直に話すと、その当時、おばぁがなぜ泣いたのかはわからなかったし、聞いていいのかわかりませんでした。

その状況は断片的ではありますが記憶に残っていたようです。

今日は、沖縄にとって、とても大切な日。

だから、おばぁに聞けなかったことを思い出しました。

どうして泣くの?

お母さんの兄弟は、何故亡くなったの?

戦争の話し、聞かせてほしい。

今まで母におばぁたちの戦争の話しをきくと、母も
「ん〜、わからない」という返答が結構ありました。笑ってはぐらかしているのか、本当に母は知らないのか、これもまたわかりません。

でも、もし、私が母と同じ立場だったら、
自分の母に、「どうして2人の兄弟は死んじゃったの?」と、尋ねられるかわかりません。戦争のことを思い出させるのは、とてもつらいことだと想像できます。家族だからこそ、聞きにくいこともあると思います。

おばぁは、私が高校生のときに亡くなりました。

私が生まれたときから、半身不随だったおばぁは、普段は車椅子で生活していて、よく笑って笑いすぎて涙を流していたことをよく覚えています(笑)声も大きかったな〜。

おじぃは、私が幼稚園のときに亡くなりました。おじぃは寡黙な人だったと思いますが、家に遊びにいくと、その時代の人では珍しく、頬にキスをしてくるおじいで、愛してくれていたんだなーと思います。
ただ、おじいのちょび髭があたるので、嫌だーと内心思っていました(笑)

私の父方も母方のおじぃもおばぁも、天にいるので戦争の話しを直接聞くことはできません。

母から返信がきました。

画像1


そうだったんだ。泣く。

覚えていなかった自分や、おばぁの気持ちを想像したら、涙が。
マスクしててよかった。

おばぁの妹が元気にしてる間に、会いに行こうね。と約束しました。

ついでに、もう一枚。

画像2

いとこのねぇねぇが新聞社にインターンしていたらしく、おじぃにインタビューした記事を、最近母が見せてくれました。

おじぃがこんなことを思ってたなんて知らなかったので、びっくりしたけど、やっぱり、ここでも涙が。母に見られないように必死で顔をそらす。

文章や映像のチカラって、時代もだし、人を繋ぐ役目になるんだなと改めて思いました。

車の修理が終わりそう。無料のセルフドリンクをあと一杯飲んで
来月はひいおじぃちゃんとおじさんのとこにお花を持っていこう。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?