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[掌編]珈琲と眼鏡

いつの間にか鼻まで下がっていた眼鏡を外すと、午後の三時を回っていることに気がついた。まだ昼も食べていない、と思った瞬間に喉が渇く。朝からディスプレイを睨んだままで、テキストが眼鏡のレンズに貼りついてしまったんじゃないかと思ったが、もちろんそんなことはなかった。

もう昼はいい。とりあえず珈琲を淹れよう。

珈琲を淹れる動機はそれが飲みたいからではなく、豆を挽きたいからだ。戸棚からミルを取り出し、銅のスプーンで豆を掬う。ハンドルを回してがりがりと豆を挽いているときに漂う珈琲の香りはたまらない。

しゅんしゅんと湯気の立つ珈琲ケトルから、ドリッパーに細く湯を注ぐ。豆の膨らみを壊さぬよう、細く手寧に回しながら注ぐ時間は贅沢だ。

こうしてたっぷり時間をかけて珈琲を淹れ終えた後、珈琲を飲みたいと思っていた欲望の半分以上は満たされていることに気づく。飲むことは、淹れることのおまけのようなものに近い。

それでもせっかく淹れた一杯を楽しむために、珈琲の友は欠かせない。

残念なことにチョコレートは切れていた。冷蔵庫にある甘そうなものといえば杏のジャムくらいのもので、諦めきれずに冷凍庫まで開けると、先日、山ほど焼いて冷凍したきりだったスコーンが残っていた。

なんと素晴らしいことだ。ひとつを解凍し、杏のジャムを添える。隣に湯気の立つ珈琲を置けば、カフェと変わりない。さくさくとスコーンをかじり、珈琲を注いだカップを覗くと、そこに妖精の棲む夜が見えた気がした。

ああ、この妖精が逃げないうちに書かないと。

慌てて外していた眼鏡をかける。その途端、レンズが湯気で曇ってしまった。するとどうだろう、せっかく珈琲のなかにいた妖精がレンズに映り込み、丁番からつるを通して外に逃げてしまった。

晴れたレンズで珈琲を覗くと、もうそれはただの珈琲だった。耳元に、妖精が逃げるときクスクスと笑った囁きだけが残っていた。